「尾崎豊」とはなんだったのか。

尾崎豊が活躍した1980年代。

時代はバブル経済でした。

学校では「管理教育」のもと、髪の毛やスカート丈の長さまで決められていました。

「標準であること」が求められ、得意科目をさらにのばすよりも、苦手科目をつぶすことが大事でした。

子どもの進学先は、先生が偏差値ごとに振り分け、得意分野は勉強させてもらえないこともありました。

管理のもと、「みんなと同じ」しか生き方がなかったのです。

もちろん、それ以外の生き方もありましたが、「不良」や「反社会的」など、否定的なレッテルが貼られてしまうのでした。

みんながところてんのように次のステージへと押し出されていく、そんな社会でした。

そんな社会の圧力に、疑問をなげかけたのが尾崎豊でした。

青山学院大学高等部に通っていた尾崎豊は、不良ではありませんでした。

でも、学校にむけて意見をしたところ、反社会的な要注意人物にされてしまったのでした。

そんな「NO」と言えない時代だったのです。

こんなふうに書くと、なんだか戦時中みたいですね。

でも確かに、男性は企業戦士として「24時間闘えますか」のスローガンのもと、ビジネス戦線で闘っていました。

「銃後の守り」のように、女性は専業主婦として、家事と育児を一手に引き受けていました。


こうした時代にあって、尾崎豊は時代のシンボルでした。

「どんなふうに生きていくのか」

「自由とは何か」

などなど、社会のあり方に疑問を投げかけることへのアイコンになっていました。


尾崎豊は、どのように生きるかを考えるシンボルでもあったのでした。
鉄道好きです。

路線図マニアです。

大阪市内の主要駅近くで生まれ育ったので、JRや地下鉄、関西私鉄が身近でした。

車がなかったわが家。

どこへ行くのも電車だったので、電車に乗っているあいだに自然と路線図をながめるようになりました。

まだ乗ったことのない路線、まだ行ったことのない駅を想像して楽しんでました。


地下鉄を利用することが多かったので、地下鉄から覚えていきました。

大阪の地下鉄は、東西南北にまっすぐ走っていて、路線ごとに色がついていたので、子どもでもわかりやすかったです。


御堂筋線の主要駅はホームが広くて天井が高く、年代物の巨大なシャンデリアがつりさがっていて豪華な雰囲気と同時に、歴史のロマンを感じさせてくれました。

圧倒的な豪華さと歴史のロマンでいうと、阪急梅田駅はその筆頭でした。

近鉄電車は、大阪と京都、奈良や三重、名古屋を結ぶネットワークで、旅行気分を味わえました。

南海電車は、高野山に行ったり、南紀の海岸線を走ったりと自然の豊かさを味わわせてくれました。

JRは「阪和線」とか地名からとった路線や、「大和路線」とか風流な名前がついていて、しかも日本全国に広がっていって見てるだけでも飽きなかったです。

駅にもそれぞれ個性があって、私鉄ターミナルのただっ広いホーム。

普通列車しか止まらない街中のさびれたホーム。

JRのターミナル駅は、そのからクモの巣のようにいろんなところへつながっていきました。

鉄道には鉄道会社ごとの色があり、駅にはそれぞれ歴史があり、それこそ駅ごとにまるで外国に行ったかのような異文化がありました。

路線図でどんな駅か、どんな路線かを想像するだけで楽しくて、実際に乗ってみて文化に触れて旅行気分を味わっていました。


この鉄道愛は東京に来てからも変わらず。

関西と関東の鉄道の良さを知っている幸せ者です。

そんな私が一番好きな電車は阪急電車。

続いて、近鉄電車。

関東では、京急電車です。
働き方改革を働く人のための改革にするために。

働き方改革といいながら、働かせ方改革と批判されています。

労働者をどんなふうに働かせたいのかじゃなく、私たちがどんなふうに働きたいかを考えたいものです。


働き方で、こんなことがありました。

「ジェネラリストとスペシャリスト」

大学で社会学を勉強していたとき、もっともインパクトを受けたことばの1つです。

当時は、大学を卒業して、1つの会社に就職して定年まで務めあげるのが当たり前でした。

定年まで、1つの会社の中でいろんな部署を異動しながら、向いている仕事も向いていない仕事もほどほどに経験して、会社のために働くのがサラリーマンでした。

ジェネラリスト的な働き方を学んで、自分は暗い気持ちになったことを覚えています。

私は高校のときに不登校をしたり、得意科目と苦手科目がはっきりしていたり、凸凹な人間でした。

なので、いろんな部署で、そのときの人間関係を大切にしながら働くのがイメージしづらかったのです。

自分は気が弱いから、強気の上司や同僚たちにめんどくさい仕事を押し付けられるんだろうな。

ワイワイ騒ぐのが苦手だから、同僚の輪に入っていけないだろうな。

どんな仕事をするかよりも、みんなでなかよく働くことが大事を考えると、ため息しか出ませんでした。


私は自分の特技を生かして働きたいと思っていたのですが、当時はそういうスペシャリスト的な働き方は、一段下に見られていました。


どう働くかは、どう生きるかです。


私はそのころから、みんなでなかよくすることにエネルギーを使うような働き方はしたくなかったのです。

みんなが見てるテレビを見たり、みんなが遊ぶお店で遊んだり。流行のモノやことを追っかける生活。

つまり、会社でなかよくするための手段として、みんながしていることを情報収集するのに時間と労力を使いたくなかったわけです。

それよりも、自分にしかできないこと、自分の特技を生かせること。

そんなライフワークというか、天職というか、職人みたいですが腕(技術と知識)一本でやっていける働き方をしたかったのです。


幸いなことに福祉職で働いて、それなりの技術を身につけて、人様にも語れるようにはなりました。

仕事以外で飲みに行ったり、遊びに行ったりはしませんけど、誠実に働くことで信頼を得られるように努めてきました。


誠実に働くためには、頼まれ事を何でも引き受けるのではなく、「できないこと」や「やりたくないこと」は、その場できっぱりと断ることが大事なことも学びました。

「働き方改革」が「働かせ方改革」にならないようにするため、私自身はどのように働くかをいつもチェックしたいです


まだまだ働く予定ですし、生きていくつもりですが、自分の心と体を大切にして働きたいですね。

たぶんそれが、「自分らしく生きる」ことの基本になるんじゃないかと思うのです。

働き方改革にするために、いつも自分の働き方を見直していきたいと思っています。