とても簡単に思える、
トイレを我慢しないということ。

でも気がつくと、家に居るときでえちょっと我慢していたりする。

仕事中や、友達とお茶しているとき、
お酒を飲んでいるときなんて特に。
私はトイレを我慢しがちだ。

理由はただ面倒だから。
ちょっとトイレまで行くのが面倒と言う理由で、体に我慢をさせ続けてきた。

私は、自分に優しくするということを、
ここ最近ずっと考えてきた。
自分自身の本当の望みに耳を傾けることを。

いつの間にか、小さい頃お母さんや、幼稚園の先生に言われたなにか、小学生の頃からキラキラしていたあの子、好きな子に言われた言葉、
そんな些細な言葉たちは私の心や体にチクチク刺さっていった。トゲをとる。その作業を、随分長い間してこなかった私はいつの間にかトゲを自分自身のように受け入れてしまった。
それはいつしかシコリの様に硬くなり、私を包む。そうしているうちに私は自分の望みを忘れてしまったのだ。

なんかおかしいな。
毎日モヤモヤする。
20代からずっと感じてきた喪失感、焦燥感。

私はそれを恋愛が上手くいっていないせいだと思っていた。得体の知れない喪失感や寂しさは、彼と離れているせいだ。もしくは運命の人じゃないからだ、完璧な運命の相手に出会えれば、この喪失感は消えるはずだ。

でも、そうじゃなかった。

運命の相手かは分からないけど、私は大好きな人に出会った。この人となら幸せになれる、そう思った。だけど、あの喪失感はなくならなかった。彼と一緒に居る間は確かに消える。でも離れた瞬間に寂しが襲ってくる。
彼と居ても、私の喪失感は変わらなかった。

なぜ?


それはたぶん、私が本当の望みを隠していたからだ。私は、自分を発信したいという欲求があった。何かで有名になりたい、私という人間を世界に知ってほしい。。。まだ自分が何を発信したいか分かっていなかった私は自己顕示丸出しだった。なのに、それを隠していた。
彼の側に居られれば他には何もいらない。という仮面をつけて。


そんな私の歪んだ望みは、やがて彼への歪んだ愛に変わっていた。彼を縛りつけようとした。

本当の望みには気がつかないふりをして、無視し続けた。偽物の望みは叶わないように出来ているらしい。私はすぐに彼とも一緒には居られなくなった。自分から壊してしまったのだ。

本当の望みを無視した結果私は大切なものを失った。もちろん全てを失った訳ではない、もっとも大切な友達や家族は今でも私の側に居る。
本当の望みの代わりにしたものは失われる仕組みになっているのかもしれない。

彼を失って、私は悲しかったけど、失意のどん底って感じだったけど、だからこそ私は自分の望みに向き合うことができた。それしかする事がなくなってしまったのだ。

とことん自分の望みに答えようと必死だった。
逆にそのことに囚われていたとも言える。
欲しいと思ったものはお金がなくても手に入れなくてはいけない気になったし、食べたいものはなんでも我慢しないようにした。
でも今度は、それだけしても現実が何も変わらない事に焦りを覚えた。気がつくと襲ってくる焦燥感。望みを叶えているのに私は全然喜んでいない。全然満たされなかったのだ。

望みは刻一刻と変化する。昨日の望みが今日の望みとは限らない。頭で何も考えずに望みに従えたらそれが一番だ。でも私は頭で考え過ぎたもなのを望みだと思い込んでいたのかもしれない。

また、なにが本当の望みか分からなくなった。
アイス食べたいな、これさえわたしの本当の望みじゃない気がする。記憶と思考で食べたいと思い込んでるだけじゃないのか。そんな無限ループな思考に陥入る。


だから、私は決めたのだ。

せめてトイレだけは我慢するのやめよう。

「トイレに行きたい」

なぜなら、それだけが唯一、文句なしに分かりやすい私の本当の望みだからだ。
逆にそれ以外の事はよく分からなくなってしまった。

でも、トイレ行きたいは、絶対に「思考」ではない。
体の素直な声だ。

それくらい面倒がらずに聞いてあげようと思った。


そう思って1週間が経つけど、驚くほど色々な事のタイミングが合い始めた。
全然大きなことじゃない、小さな事だけど、

でも、たまたま良いタイミングで電車に乗れたとか、お金に困っていた時たまたま会った友達によい情報を聞けたり、出会う人がみんな良い人だったり。なんだかラッキーなことが増えた気がするのだ。

ただ、トイレを我慢するのを、
やめただけで、、、


なんか良い事が起きそうな気がする。

もう少し続けて様子を見たいと思う。
リハビリだ。