例えばまつ毛。
つけまつ毛も、アイラッシュも、マスカラも、カールの角度と長さ、濃さは、もうひと盛りしたくてもやめる。
例えばアクセサリー。
髪に、耳に、首に、手首に、指に、これでもかと華美にすればするほど真実味が薄れていく。
例えば街中での肌みせ。
トップスを多めに見せた時はボトムスは覆う、そしてその逆もしかり。

上級者になるほど引き算よと言ったココ・シャネルはファッションのことを表したけれど、
保存を目的としない食のレシピは、素材を活かしきった引き算ほどいい。

$エッセイスト料理研究家ROMAKOの『好きな人と好きなモノを好きな時に好きなだけ食べる』-団子三兄弟

かの北大路魯山人はこうだった。
料亭で、椀の汁を1口すすり、「うま過ぎる」といって、顔をしかめている。
誰が食しても「さすが」とうなる料亭自慢の逸品に、まわり一同唖然とする中、魯山人はお湯をドボドボ注ぎ味を薄く変えてしまった。
そこ真意があった。
目一杯うまさを突き詰めてしまうと、食事全体では舌がもたれ、うまかったという気持ちが残らない。
だからこそ。
人生、食事のできる量は決まっている。
だからこそ一食一食にとことんこだわる。
己の美学を貫き通す魯山人の振るまいまではいけずとも、その神髄の知己を持ちたい。

甘味処たかねのお団子は、大きくなく甘くない。
それなのに、食し終えた満足度はべらぼうに高い。
ぐっと引かせてざくっと深い、食させる肝所があるのだ。
だから敬意を払って、ここで終える。
気持ちはあと3本お願いします、だったとしても。

この滋味を届けてくれた友人の味覚が私は大好きだ。