朝の光がキラキラ輝いて、晩秋の葉が美しく色づいていました。
正面の葉の赤が印象的です。
自然の織りなす絵は、最高です。
この自然を作り出す英知と、
この美しさを感じ取れる私達を作った存在の偉大さに,改めて驚きます。
朝の光がキラキラ輝いて、晩秋の葉が美しく色づいていました。
正面の葉の赤が印象的です。
自然の織りなす絵は、最高です。
この自然を作り出す英知と、
この美しさを感じ取れる私達を作った存在の偉大さに,改めて驚きます。
父の短歌集8『お土のこころ』の掲載を昨日で終えました。
今後また歌集を発行した際には、紹介していきます。
今日から、田舎で撮影した写真を紹介していきます。
それとともに、それにまつわるエピソードや思いも書き綴ろうと思います。
実家の庭にひときわ朱が目を引く「南天の実」です。
なぜにこんなに赤いのでしょう?
たぶん、鳥についばんでもらいたいのですね。
食べてもらい、種をあちこちに運んでもらいたいのでしょうか。
田舎に帰ると、ムショウにカメラを抱えて、散歩に行きたくなります。
周囲の光景が私を呼ぶのです。
「私を見て!」とまるで、自然が私に呼びかけているように感じます。
確かに、美しい光景や自然が溢れていて、どんな姿を見せてくれるのか、ワクワクしてきます。田舎は至るところに被写体があって、それを写真として切り取るのが、
すごく好きなのです。
撮影した写真を見せると、いつも見ているはずの光景に驚いてくれます。
「こんなにきれいなんだ~」
なんて言ってくれます。
確かにキレイなのです。
父が、生活の中で出会った光景や思いを、短歌にしたくてしょうがないように、
私は、写真に撮りたくてしょうがないようです。
この写真は、この前11月下旬に帰省したときに撮影しました。
天候がイマイチでしたが、それでもワクワクの光景で満ちていました。
凍てし道の解けそめ足元気遣ひつつ人型勧めに行けば汗ばむ
平安とお土の御恩詠み継ぎし歴代教主にまつろひはげまむ
夕拝を終へて見放くる窓外の残照の峰の気高さに対ふ
(雪を被る菊)2019年11月
献詠歌の投函おへて入選の夢ふくらませ日々を待ちをり
ここまでで、父の短歌集短歌集8『お土のこころ』の本文の掲載を終わります。
この短歌集はわずかに30部を手作りして、父の知人に配ったものです。
もっと、多くの人に父の短歌に触れてもらえたらと、ブログやfacebookやtwitterなどの文明のお蔭をいただき、公表することにしました。
現在父は88歳。生活の合間を見つけては、心に映るさまざまな事象や思いを短歌にする生活をしています。
父が今後も人生を生き、短歌を作り続ける限り、こうした短歌集にまとめていくつもりです。
父の短歌は、平易で誰でもが読んでもわかりやすく、そのイメージが拡がっていくというところが、とてもすばらしいと思っています。
平易な言葉で、思いを伝えていく歌作りは、とても大切なことと思います。
今後は、山形の撮りためた写真を少しずつ紹介して、それにまつわる思いを書いていこうと考えています。
数少ない読者のみなさまは、とても貴重で大事な方々です。
お読みいただき、本当にありがとうございました。
今後ともよろしくお願いいたします。
元朝の灯明ゆらぐ神前に
朗々とのりとの透きとほりゆく
開祖様お土大切とのみさとしに
うべなひまつりて今日も鍬持つ
教主様のお力乞ひつつ人型の
御用に雪道往き来なしたり
雪を被る蔵王嶺
父の信仰は厚く、毎朝毎夕の神への祝詞の奏上は欠かすことがありません。どんなに体調がすぐれなくても、神前に正座し、朗々と奏上します。大したものだといつも思います。
開祖様や教主様の教えを抱き、日々の農作業に勤しみます。
まねのできることではないです。
父のこうした神への思いと感謝の気持ちとともに、短歌が生まれ、その言葉の波動が周囲に響きわたるようです。
【田舎山形への帰省】
ブログの投稿が少し間が空いてしまいましたが、この間両親のいる田舎に一時帰省しました。
蔵王は白化粧となり、空気はかなり冷たかったです。
それでも、冬景色がとても美しく、感動の時でした。
培ひし馬鈴薯に胡瓜茄子ピーマン月次祭に今日は供へぬ
昔より作り継がれしぶどうにて青き実高く香るを供えぬ
冷えしきる朝ほのかに香りたつ味噌汁持ちて祖霊に供ふ
朝の礼拝には、米、水を供えます。
祖霊様(先祖を祭る社)には、その日の朝食を供えます。
声高らかに祝詞(のりと)を奏上し、賛美歌も歌い、その日の健康と生業の発展を祈ります。
と、書きましたが、正確かどうか自信がありません。
帰省すると、私も一緒にこの礼拝に参加するようにしています。
神道のこと、宗教のことはよくわかりません。
興味がないわけではありませんが、深入りをしようとは思わないのです。
宗教が目指すものは、立派なことも多いと思います。
しかし、世界中を見渡しても宗教で争ったり、いろいろなトラブルが起こっているのも事実です。
仏陀は、宗教を作ろうとしたわけではないでしょう。
ましてや、葬儀屋に加担しようとは微塵も思わなかったでしょう。
イエスもキリスト教を作りたいとは思わなかったでしょう。
それが、いろいろな形で利用されてきてしまったように思えます。
でも、宗教を自分の生き方の指針として役立てている方々も多いことでしょう。
それはそれで、いいと思います。
その教えを実践して、それぞれが神様に通じる何かを感じ、やさしく心穏やかにいきられるのなら、大切な存在となるものと思います。