日本経済新聞(5/27)にて、東京国立博物館での「岡山藤四郎」発見の記事を読みました。
戦後に皇室から東京国立博物館へ移譲された刀剣のなかからです。
皇室から東京国立博物館へ一括して委譲されている刀剣は沢山あります。
そのほとんどが明治天皇収集のもので名刀揃いです。
そんな中から「享保名物 岡山藤四郎」が発見されたので驚きました。
何故埋もれていたのか?様々な事情はあるのでしょうが、、、
記事によると、来歴不明だったこの「吉光」の短刀について、
尾張徳川美術館の調査で、幕末に14代尾張家当主の慶勝から親王(のちの明治天皇)へ献上された短刀であることが判明(この時点で岡山籐四郎と分かっていたことは明白)。
東京国立博物館がその寸法、銘振りを調査し、「岡山藤四郎」と発表したものです。
(記事にはありませんが尾張徳川美術館の調査結果を光温押形で再確認したのでしょう)。


名物 岡山籐四郎
「図説 刀剣名物帳」より 辻本直男著 昭和45年 雄山閣発行より
これは岡山籐四郎に関する享保名物帳の解説と、その押し形です。
日本経済新聞の写真を掲載したいのですがご勘弁。
刃長:八寸五分(実測 25.8㎝) 表裏に護摩箸あり
信濃藤四郎を想起させる「吉光」らしい上品な姿でした。寸法ともほぼ同一。
表裏の護摩箸は後彫りでしょう。「吉光」の短刀によく見られます。
名物 信濃籐四郎(ご参考まで)
「名物刀剣-宝物の日本刀」平成24年 佐野美術館発行より
刃長:八寸二分(実測 24.8㎝)
日本経済新聞の記事に写真が掲載されていましたが、銘振り、茎長とも瓜二つ。
粟田口籐四郎吉光の短刀の作としては大振りの部類です。
健全度合いも互角でしょう。岡山籐四郎のご参考まで。
このような来歴調査は実に難しいものです。
よほどの特徴がない限り、無理と言っても差支えないでしょう。
①尾張徳川美術館で刀剣台帳を調査・整理中に皇室への岡山籐四郎の献上記録を発見。
②その後の足取りを追うべく宮内庁と東京国立博物館へ調査依頼。
③東京国立博物館にあった旧御物の吉光の短刀の中から「岡山籐四郎」を絞り込んだ。
このステップを踏むだけでも、バックデータ、調査依頼、特定の審査。実に面倒です。
さて、「岡山藤四郎」とはどのようなものか?順を追って解説しましょう。
「享保名物帳」に掲載されている「岡山藤四郎」の号のある、粟田口藤四郎「吉光」の短刀、と書いてもさっぱりわかりませんね。
享保名物としての「岡山藤四郎」のキーワードをそれぞれ解説します。
あえて長くならぬようサラリと書きます。補足は追々ブログのネタとして発信したいと思います。
●享保名物帳
八代将軍徳川吉宗が本阿弥光忠に命じて日本中にある名刀を調査させたもの。
「岡山藤四郎」の調査記録は上掲の「図説-享保名物帳」をご覧ください。
ポイントは、以下3点。今日、享保名物帳を読む際にも興味深い部分です。
・代付け「不知代(対価をつけられないほどの価値がある)」
・当時の所有者が尾張殿
・華やかな来歴
●岡山藤四郎の号
前田利家→豊臣秀吉→小早川隆景→小早川秀秋へと贈られたもの。
小早川秀秋が現在の岡山の領主だったため、「岡山藤四郎」と号をつけられました。
その後、徳川家へ献上され、幕末に尾張徳川家から皇室へ移り明治維新を迎えます。
●粟田口藤四郎「吉光」とは
鎌倉時代に京都の粟田口付近で刀鍛冶をしていた一派の一人。
親子兄弟に関する記述は古来より様々ありますので割愛します。
また、その作風等についても割愛します。
「吉光」は古来より短刀の名手として名高く、享保名物に認定されている作は、焼け身、追加を含め38口あります。
岡山籐四郎は享保名物帳掲載の粟田口吉光の中では3番目に位置します。
ベスト5を並べてみます。
1、平野籐四郎 不知代 (現 御物)
2、烏丸籐四郎 不知代 (行方不明)
3、岡山籐四郎 不知代 (今回発見 東京国立博物館 旧御物)
4、厚籐四郎 5千貫 (現 国宝 東京国立博物館)
5、信濃籐四郎 5千貫 (現 重要文化財 致道博物館(近年まで庄内酒井家))
岡山藤四郎の価値の素晴らしさがお分かりいただけましたでしょうか?
遠からず東京国立博物館にて展示されることでしょうから、是非拝見しに行きたいと思います。
さて、「岡山藤四郎」に関してはこのあたりで切り上げます。
現状の日本刀の位置づけについて書きたいので、もしご関心のある方は後述をお読みください。
**********
我が国日本は、文字通り鉄文化の国だと思います。
良質な鉄を鍛える技術があるからこそ、奈良時代の建造物が素晴らしい形で現代へ伝えられています。
木材を加工する道具は鉄。そして組立には鉄の釘を用います。
そもそもの建築への思い、設計思想が重要とも言えますが、それを実現するには具体的な技術があってこそ。
卵がなくては鶏が生まれないように、具体的な技術がなくては発想が浮かびません。
このようなものを生み出したい、実現したいと思いつくからには、ベースに必ず可能とする「何か」があります。
明治維新後の廃刀令。第二次大戦後の武装解除で数多の名刀が散り散りになりました。
特に享保名物に指定されるほどの名刀類も散り散り。
しかしながら、なかなか調査や研究が進みません。今日においては日本刀を勉強する人も少なくなりました。
日本刀は武器なのだから現代に不要、と考える向きもあります。確かにそうでしょう。
受け取り方では芸術品というのもおかしなカテゴライズかも知れません。
あくまで武器としての機能を追求した末の機能美が根底にあり、地刃に美を添えたものでしょう。
しかしながら単に武器であれば良いなら、精美な鍛錬、華やかな刃文は不要です。
私個人は日本史上、最も重要な文化要素の一つこそ「日本刀」であり、現代に遺された文化財だと考えています。
日本刀の置かれていた位置づけは時代により様々。戦国時代ならば文字通りの兵器です。
解釈はそれぞれの時代で異なり、また解釈する人の立ち位置によっても見方の角度によっても変わるでしょう。
「鉄文化」「為政者の扱い」「それぞれの時代での位置づけ」といった切り口から日本の歴史を考察すると実に面白いものですよ。
武家社会が明治まで千年続いた日本だから重要性が高いのでしょうか?
ところが遡れば日本神話まで辿り着きます。そして「農業=食糧生産」という切り口に出逢います。
鉄は本当に面白い!