あれだけ暑いと言っていたのに10月も半ば
関東でも朝晩は結構涼しい。
ましてや北東北となれば、もう寒いって感じで朝晩は、ちょっと厚手の上着が必要になる。

ひさしぶりに十和田市内に泊まり、
野辺地まで国道4号線を車で走ってきた。
この日は、穏やかな晴天で、紅葉が始まっている八甲田の山々もとてもき綺麗だった。

私は、この国道が好きで何度走っても飽きない
特に景色がいいとかではないが、ところどころに残る松並木がとても印象に残る。
遠い昔のことを考えると、今に残る松並木の立派さから、しっかりした街道は整備されていたのか?と想像できる。

そんな街道沿いに、この日本中央の碑の展示場がある。
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この碑については以前も紹介したが
歴史をたどると色々と興味深い

思えば、私が歴史に興味を持ったのは
父方の祖父がとても歴史に詳しかったからだと思う。
小学校で習い始めた鎌倉時代の歴史を得意げに、話した時
じいさんが東北出身だから、九朗義経の平泉討ち死にの話をした際、
九朗は平泉では死なず、北海道に渡ったと教えてくれた。
私は、じいさんが物凄く好きだったし、九朗の生き方も好きだったので、学校で習う話より
じいさんの話を信じた。
当然小学校の先生はあまり相手にしてくれなかったが
中学に入って、歴史の先生がとても頭の柔らかい人だったので、
教科書にない歴史として、この説は多分正しいと教えてくれた。
合わせて、歴史なんて
その当時に生きているひとが残っていないから、本とか石碑などの記録から推測するしかないので
ものによってはとてもグレーであることを教えてくれ、より面白さに引き込まれた。

じいさんは、田舎の百姓なので
多分当時の小中学校レベルの教育しか受けていなかったと思うが
伝説と歴史の微妙な境界があるけど、とても知識人だった。
特に東北、地元の歴史は詳しかった。
坂上田村麻呂、坂東太郎、九朗義経、真田の子孫など・・・

そんな中、東北でゆかりの深い坂上田村麻呂の伝説はどこにでも残っている。
歴史を調べると、福島、宮城、南部岩手ぐらいまではそれなりに新表性があるが
青森となると、多分彼の関与はほとんどないと考えるのが普通だと思う。

この日本中央の碑も
いわれによっては田村麻呂と繋げてしまいがちだが、
どうもこれは、田村麻呂の後任の文室綿麻呂らしい。

坪の碑と末の松山
東北にあるといる2つのキーワードはとても興味深い

ここにも展示されていたが
日本中央の日本とはひのもとを意味し、東北地方を示すことばらしい
今の東北を考えると随分と北になるが
北海道も含めてと考えれば、それなりか・・・・

どちらにしても、京都に都があった時代
東北なってとちは、地の果てってイメージだったことは間違いない・・・・そう感じます。