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以前にも紹介した「戸」の付く町・・・一から九までありますが、何故か「四」だけありません。
地図を見ても残念ながら地名として残っていないようです。

でも気になる四戸・・・苗字では結構聞く名前なので、ネットで検索すると、ありました。

二戸市の北部、金田一(きんたいち)温泉・・・「た」は濁らないんですね。
最近では座敷わらしが出る旅館・・なんかでも有名ですね。

探偵の金田一耕介や国語辞典でおなじみの金田一京介氏など、なじみのある名前ですね。
でも名前は「だ」と濁る様です。

そんな金田一のとある場所、八坂神社と長寿寺の裏手に、四戸城跡があると言うので行ってみました。

実は1ヶ月前にもトライしたのですが、城跡の場所がわからず・・・断念した経緯もあり再トライです。

ネットでは、長寿寺横の墓を通って行くと高台に出られる・・・と書いてあったので、それに従いました。
長寿寺左横の墓を歩いて・・・途中、墓を掃除している人に、聞いても反応なし・・・
でも右手の高台は、確かに怪しい・・・でも道がない。
結局、道路に出てしまいました。でも高台は絶対怪しいので、多分掘跡と思われる窪地を上がってみると
広く開けた場所に出ました。
目印の大きな石を発見、2度目にしてやっと発見できました。

看板には以下の通り記載があります。
四戸城跡
四戸城は、上館、中館、下館の三つの曲輪(くるわ)からなっています。
南部氏の一族とされる四戸氏の居城でしたが、四戸氏はいつ頃から当地に居住したのかはわかっていません。
戦国時代末期、城主四戸宗泰の妹は、九戸城主、九戸政実の妻で、また四戸宗泰の妻は九戸政実の叔母でした。四戸氏は、二戸地方で絶大な勢力をもっていた九戸氏とは親しい間柄でありました。
しかし、天正19年(1591)の九戸の戦いを前に、四戸宗元(宗泰の嫡子で当時城主)は弟金次郎の流言のため秋田へ逃れ、病死しました。
そのため四戸城は九戸方に対する南部信直方の居城となり、九戸の戦いの後、廃城となりました。

高台なので、目の前には折爪岳が良く見えます。
帰りは、車が通れる道があったのでそこを下ってみると、なんと入り口は長寿寺ではなく八坂神社側(向かって右側)のお墓だったことが判りました。

四戸城跡までの案内版もなく、多分地元でもあまり知られていないゾーンなのかも知れません。