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キリストの墓が、青森県の新郷村と言うところにあります。

キリストが日本に・・・・なんて、普通ではありえないことなので、その村の歴史や風習などを知らずに全否定してしまうのは、少々つまらない気がしますね。
ここは、1つ本当かも知れない・・・って気持ちで想ってみると、物凄くロマンが広がりますね。

さて、そもそもなぜこの地にキリストの墓があったのか・・・
学研のミステリー雑誌「ムー」を愛読している人には分かると思いますが、あの竹内文書(遺書と書いてある書面ですね)に、キリストの墓のことが書かれていたことにより、調査した結果この地にある、2つの土の山が墓・・・であるとなった訳ですね。
その歴史はまだ浅く昭和10年のことだったそうです。

その文書には、キリストはこの地に住み106歳で亡くなったとあるそうです。
磔刑を受けたはずのキリストは死んだはずでは・・・・と疑問が湧きますね。

この書では、実は磔刑にされたのは、キリストの弟のイスキリであり、当のキリストは、ロシア、アラスカと逃げのび、日本に渡ってきた・・・・。
なので、有名な「神よ何ぞ吾れを捨て給うや」と言ったのは、弟になるわけですね。
ちょっと複雑な感じです。
キリストは鼻が大きく、赤ら顔だったらしく、天狗のようだったそうです。



逃げ延びて日本に来た時は、実は再渡来だったようで、キリストの謎の1つ21歳から33歳までの消息について、その時、実は日本に来ていたそうです。それは11代天皇の垂仁天皇の時代。
ここでキリストは日本で色々修行し、また戻って行った。

日本でのキリストは、「十来太郎大天空」と名前を改めていたので、お墓には十来塚となっています。
で十代塚は、弟のイスキリの耳と聖母マリアの頭髪を葬ったといわれているそうです。


この墓は、この町のある一族が守ってきたそうです。
墓のある町は、戸来(へらい)といいます。なんとなくヘブライ語の雰囲気がありますね。
また、この人形にある額の十字架・・・これもこの町の風習で、子供が生まれ、初めて屋外に出すとき、この額に墨で十字を書き入れるそうです。
この様な風習からも、ユダヤに縁のある風習に似ているとされています。
でも、この人形の顔・・・これはいかにも外人ですね。ちょっと微妙です(笑)

キリストの墓、そして伝承館で歴史を学ぶと、もしかしたら・・・と思ってしまいました。

この伝承館・明日から来年4月まで、冬季閉鎖だそうです。