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昨日紹介した日本中央の碑
現在、展示されている保存館は有名なので、色々と紹介されていますが、もう少しマニアックに伝説の基となった千曳神社と、碑の発見地をあわせて3つセットに紹介したものはあまり見ませんね。

その千曳神社は
保存館より国道4号を南に下り、西側に入った奥にあります。
車通りも少なく、祭り時期でもないとあまり人通りもなさそうです。
大変立派な鳥居ですが、社は今一(写真なし)です。
説明書きは以下、伝説の地として説明されています。

「千曳神社由来
本社は大同2年(807年)坂上田村麻呂の創始と伝えられる。山伏修験道本山派五戸多門院の配下、上北郡横浜八幡別当大光院の霞に属したが、一時花巻の神官稲田遠江の支配に属したこともあった。
江戸時代には、幕府巡見使の参拝所であり、南部領では、巡路第一の地であった。
それ故に巡見使通行の節、見苦しきため、取り直し仮社としていたが、明和2年(1765年)再興した。
古くから「日本中央」と刻んだ「つぼのいしぶみ」を建てたという伝説があって、これを尋ねた和歌や紀行文が多いことで知られている」

そして、発見の地ですね。
ここは野辺地から三沢に向かう道路の、千曳と言う町にあります。
道路に大きく看板が出ているので、目につきますが、ここもまた態々車を止めて見学する人も少ない感じ・・・・階段が2つあって物凄く下におります。
碑のちょっと奥には、東北本線が走っています。

ここに「置かれた説明書きは以下、発見地であることが書かれています。

「日本中央の碑発見地
本蹟は、11世紀から12世紀にかけて和泉式部、懐円、西行、寂蓮、慈円、阿仏尼、源頼朝など多くの人々に好まれた歌枕のひとつ、「つぼのいしぶみ」ではないかと話題を呼んだ、「日本中央の碑」発見地です。
12世紀末、藤原顕昭の「袖中抄」によって、初めて解説が加えたれた「つぼもいしぶみ」はその多くの人々の関心を呼び、これを探し求めるものが後を断ちませんでした。

明治14年、明治天皇奥羽巡幸の折の探索・発掘でも見つからなかった碑でしたが、昭和24年6月21日、馬頭観音の石を求める千曳の川村種吉氏によって姿を現しました。」