今の自分を形作るものはなんですか?と聞かれたら、間違いなく「スフィア」と答える。
でもそれは現在進行形の話であって、基礎にはもっと違うものがある。
それは「野球」だ。
最初は僕の野球人生の一部についてお話しようと思います。
以下駄文なので途中で面倒になったらブラウザバック推奨
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僕が野球を始めたのは小学3年生の秋、ちょうど現中日の松坂大輔投手が横浜高校で甲子園春夏連覇をした直後だった。
もともと野球は幼少から身近なところにあって、あまり覚えてはいないが父親の草野球に毎週のようについていっていたらしい。
少し自慢になってしまうが、父親は激戦区と言われる神奈川で、夏の県予選準優勝した高校の2番手投手だった。
決勝では残念ながら投げていないが、予選で投げたと思われる写真がたくさん家に保管されているし、お婆ちゃんが酔っぱらうとめっちゃ自慢話をしてくる。
まあそんな父親を持ってしまったがために、野球を始めたの必然だったのかもしれない。
ただしきっかけは自分の意思ではない。
部員募集していた近くのリトルリーグの体験会に半ば強制的に参加させられところから野球人生が始まった。
僕はあまり運動神経がそこまで良いわけではなく、野球センスもよくない方だと思っていたのだが、チームの人数ギリギリだったので、素人ながらデビュー戦はレギュラーで試合で出ていたのを覚えている。
今ではエースだの4番ピッチャーゴリラだの名乗っているが、小学生の時は捕手だった。
父親が投手だったのに、何故自分は追いかけて同じポジションをやらなかったのか。
それは別に当時野球がそこまで好きではなかったし、父親の凄さも分からず投手に対して強い思い入れもなく、何となくその時やってみて楽しかったからという至極簡単な理由。
父親がうるさいからと惰性で続けた小学生時代だったが、良い経験・思い出も出来た。
県大会で準優勝二回、3位が一回、横浜スタジアムでも試合が出来たし、関東大会や全国大会にも出場したこともある。
よく考えたら胸を張って自慢出来ることだが、当時は本当に楽しくなかった。
毎週家に帰れば父親にめちゃくちゃに怒られ、ボロクソに言われた。今思えば怒られても仕方ないと思っている。
学年を重ねるにつれて半レギュラー状態になっていき、全く打てないわ、家であまり自主トレもしないしわ進歩しないわ。
言われて悔しさはあったが、何くそ!という反骨心がなかった。
好きでもないし、自分に将来甲子園の夢を託そうとしてるんだろうと思っていたから、自分なりのしょうもない抵抗だったのだろう。
それでも毎日毎日呆れず怒ってくれたのは夢を託すのではなく、自分のようになってほしくなかったんだろうなって今は思う。
(のちに思い出話で聞いたが、父親は中学の頃まで練習に不真面目だったらしい)
そんな小学生時代を過ごし、中学ではエスカレーター式にそのままシニアに入ったのだが、ここで大きな転機が訪れる。
中学2年になりたての時に、家庭の事情でチームを退団せざるを得ない状況となってしまった。
しかしこれが自分の野球への思いを大きく変えた。
チームを辞めたあと、中学の軟式野球部に入部した。父親は仕方ないこととは言え、少しがっかりしていたように思える。シニアで続けていれば、それなりの高校へ進める可能性もあったから。
そんな父親の思いに少しでも答えてあげたくなって、中学から投手に転向した。
入部時は性格の悪い先輩から疎ましく思われてたりもしたが、彼らが引退し新チームになってから、先発で投げさせてもらえる試合が増えた。
先発だと伝えるたびに父親が幼い妹と試合に観に来てくれて、帰っては内容をあーだこーだずらずらと言われたりしたが、過去に怒っていた表情とは違った気がした。
練習試合ながらノーヒットノーランを達成した日は残念ながら観にこれなかったが、報告したらめちゃくちゃ喜んでくれたし、同じ投手を始めて嬉しかったんだと思いたい。
3年生になって始めてエースナンバーをもらった。背中の背番号1を写メって、身内に送りつけていたのを覚えている。
残念ながら最後の夏は延長の末一回戦敗退だったが、初めて負けて悔しかったし、野球が好きになったんだなってそこで実感した。
高校野球は初めて自分の意思で続けようと思った。
父親が凄かったことはようやく中学になって理解した。
ただ理解してしまったことで、自分は父親のようにはなれないと勝手に自己分析をして挑戦を諦めてしまった。
本当は担任から県内で実績そこそこの高校を薦めてもらっていたし、やる気さえあれば父親の母校にも入学は出来た。
続けようとは思ったものの、自信がなく、一生スタンドで応援するくらいなら1年生からマウンドに立ちたいと思い近くの県立高校に進学を決めてしまった。
実際思った通り1年の夏からマウンドには立てた。
1年秋からエースになれたし(厳密に言えばチーム事情で背番号1はつけていない)、4番も打たせてもらえた。
練習試合や公式戦で毎試合出場している姿を見せることはできたが、果たしてそれで良かったのか。やっぱり強豪校でベンチに入れるかは分からないけど甲子園の夢を追いかけてほしかったのだろうか。その思いを実際に聞いたことは実はない。
どっちが正解だったのか、未だに考えるし、あの時こうしていればな、とifの人生を考えるときもある。
そんな思いもあって、少しでも野球を続けている姿を見せたくて大学でも野球を続けたが、結局ここで結果を残せず公式戦でマウンドに立ったことはない。
(チャンスはたくさんもらってたんだけどなぁ…)
その時した選択が正しかったのかいつまでもネチネチ振り返ってしまうクセは直したいなーと思っているけど、適度に振り返って同じ過ちを犯さないよう次に活かせるよう丁度いい感じになりたい。
嫌々始めたことでも、何かがきっかけで自分の生活の一部に進化するものもあるし、その逆も然り。
初めに受けた感情だけで物事を判断してしまうのはとても勿体ないことなのだなぁと思う。
継続は力なり。
良くも悪くも今の自分の性格、礼儀や人とのコミュニケーションなど、間違いなく自分の基礎を作られてたのは野球があってこそ。
野球をやっていなかった自分はちょっと想像がつかない…。
だから野球に触れさせてくれた父親には本当に感謝している。
今は当たり前の景色なっているけど、その当たり前はいつか終わりが来てしまう。だから常日頃から感謝していかなきゃな…。
今でも父親とはたまに草野球もするし、野球の話もする。
僕も30歳になるし、今度飲みながら当時の思いを聞いてみようかな。
そんな野球少年だった僕が何故に今スフィアを追いかけているのかはまた次回。
…纏まりがなく、何が言いたかったのか途中で訳がわからなくなってしまった。
情報量を調節して自分を語るって難しいですね。
スフィア全く関係ないし。
最後まで拙い文章にお付き合い頂きありがとうございました。
次回(いつかは不明)
「僕が初めて好きになった声優ときっかけ」
そう、初めて推しは寿美菜子さんではないのです…。