数ヶ月前より右肩が痛い。どうもその筋の専門家に言わせると棘上筋という名のインナーマッスルというやつが炎症を起こしているということで、針やら何やらをやったが直らず、とりあえずテーピングをしてパンチの練習をやっていたが、やはりそれが良くなかったのだろうか。


余は右利きであるので、ワン、ツーとパンチを打つと・・・・ ところでワン・ツーの説明もしなければならない読者はあまりいないと思うが、念のため言っておくと左足を前にして構え、まず左のまっすぐのパンチを出して、即座に右のパンチを出すパンチのコンビネーションのことを言う。鏡の前でやってみなされ。頭で分かったつもりでも、とりあえず体でやってみるとよかろう。でないと、あなたはもうすぐ頭でっかちの火星人のような体型になってしまうはずだ。


正直言うと、これで分からぬものは読まなくとも良い。だいたいにして、このブログという現代の公開落書き帳の使用にあたっては、通常その書き手は一人でも読者を増やそうとして必死になるものかと思うが、余はそんなことは望んではおらぬのだ。余は数などはどうでも良いから、このブログをどうしても読みたいはずだが、その存在すら知りえない者のために大事な時間を使って書いておるのである。岸壁の母か、忠犬ハチ公のようなものをイメージすればよかろう。最近の若者はそういうことを言っても通じぬのでがっかりするから、こんな難しい表現はやめればよかったかも知れぬが。


コンシュマー・ジェネレイテッド・メディア、日本語で消費者生成メディアという言葉を知っているものはどれほどいるだろう?これを読んで、少しはそれってなんだろうと思うものがおれば救いだが、大体にして面白くなさそうとか、難しそうとかいって敬遠をしてしまう。だから、君達はプラットフォーム・ビジネスの主催者の餌食になるのだ、などといってしまったら、もう二度とこのブログを訪れるものはないだろう。しかし、余はそれで良いのである。


面倒だが、話しを戻さねばならない。先の続きだが、余は例の格闘技の試合が終わったら、少し休んで、そのうちに右肩の痛みも取れるだろうから、5ヶ月ぶりに波乗りにでも行こうかと決めていた。5ヶ月ものブランクがあるのは東北のローカル・サーファーに申し訳なくなったからである。都合の良いときだけその地を訪れる自分がなんともやるせないということだ。しかし、休むのは良いが、試合まで2ヶ月近くにわたる練習と、その間余にしてはまじめに仕事をやりすぎたせいか、溜まった疲れがどっと出てしまい風邪を引くだけならまだ良いが、それをこじらせてしまい2週間近くも引きこもり状態となってしまったのである。それで、肩痛が少しずつでも直ってくれれば良いのだが、何も運動をしないのにだんだん痛みはひどくなる一方でついに整形外科の先生に診てもらうことに決めたのである。


病院ではレントゲンを取ってもらい、腕をいろんな方向に上げたり、下げたりしてこうやったら痛むんですよという説明をさんざんやらされた結果、棘上腱板なるものが痛んでおりますなと言われ、最悪接合手術のようなことをせねばならぬらしいことが判明する。原因がないなら四十肩か五十肩のようなものと言われたが、どうしてもその説明が受け入れられず、余は自分はアマチュアで格闘技をやっていて、それで痛めたことを必要以上に強調したのであるが、これは世のほとんどの女性が歳を取れば若さへの憧れを抱くことになるが、その感情に少し似ておるかも知れぬ。とにかく、痛みなどはすぐに取れなくとも良いが、余のことを四十肩というのだけはやめてくれないか、もし五十肩と言おうものなら今すぐ泣き喚くかも知れぬという表情を精一杯に見せたが、先生は忙しいのか余の顔を見ようともせずに、ヒアルロン酸というこれまた歳のいった女性が好みそうな名の液体を世の老化した、いやそうではなく格闘技という若者のスポーツで痛めたはずの右肩に注入し、2週間後に来るようにと告げたのである。


いずれにしても、試合が終わったら波乗りと言う、子供が持つような夢はもろくも崩れ去った。いやこれは面倒なことになった。しかし、どうしても我慢ならぬので、左肩だけを使ってなんとか波に乗ることにしようかと、古くからの友人に頼み週末は海へ連れて行ってもらうことにすることに決めた。

話が本題からずれてしまうのは余の悪い癖である。格闘技を始めて数年経ち、なぜに試合に出るに至ったか、またその感想はどうであったかを書くはずが、早二回目、三回目からバスに乗らない理由だとか、セミの声が何だとか100名いれば、おそらく100名の人々にとってどうでも良いことを書き綴ってしまう。まるで、そのいないであろう1名を探し出すことが私の絶対的な使命でもあるように。しかし、自己分析を行うと残念ながらおそらくそうに違いないという結論に至る。存在が確定しているのであればもうそれで十分だが、存在が確認できないその希少性にこそ男のロマンを掻き立てる何かがあるのだ。タマタマが上ずってしまうあの感覚だ。少し文章が暑苦しく、かつ下品になってきたが書き直すのはやめよう。


さて、ボクシングをメキシコで見て好きになった話を前にしたが、その続きをどのように書こうか。というのは、そのときから、格闘技を始めるのに10年弱の年月が掛かっているのである。その期間は日本に戻り、とある有料のテレビ番組で世界のボクシングを欠かさず見ていたことは事実である。ボクシングの面白いところは、メキシコ、アメリカ、イギリスといったボクシング大国に留まらず、プエルトリコ、コロンビア、アルゼンチン、パナマ、アルメニア、カザフスタンなど世界のあらゆる国からやってきた、とても裕福な子供時代を過ごしたようには見えない男達が、身体一つでのし上がりようやく獲得したその舞台で命がけで戦い合い、2人のうち1人は必ず敗者になるというその非情さを伴う結末に向けありとあらゆるドラマを展開してくれるところにある。


メジャーリーグ・ベースボールであれば、いつ首になるかもしれぬという恐怖はあるのであろうが、少なくとも契約している期間は少なくとも数千万円の年俸を保証されているのであろうし、欧州のサッカーを見ても、試合後の自分の体がどうなっているかも分からないという様な極限状態の中でプレーをしているようには見えない。もはや、これらのプロスポーツのぬるさには我慢がならぬ。たった今気がついたのだが、そもそもボクシングにはゲームという言葉が似つかわしくなく、またプレーという言葉も同様である。いやいや良いことに気がついたものだ。


ちなみにその道がお好きな方々のために披露するならば、余の好きなボクサーは、ミゲール・コット(プエルトリコ)、イスラエル・バスケス(メキシコ)、ファン・マニュエル・バスケス(メキシコ)といったところになる。要するに勝っても、負けても格好の良い人達であり、マニー・パッキャオやフロイド・メイフェザーのように強すぎて試合がおもしろくないボクサーは嫌いになる理由もないが、さして好きという訳ではない。余の判断基準では、悲壮感こそが美しさの源なのであり、後者2名はその要件を満たせずにいるのだ。


この10年近くの間、余は歳を一つずつ取りながらも、筋力トレーニングをしたり、プールで泳ぎこんだりとトレーニングをしていた訳であるが、どうも何か物足りない。それはボクサーだけが持つ、筋金が入ったような、パンプアップしていない、あの自己主張しない美しい肉体を、少しでもよいので手に入れてみたいと知らぬ間に感じていたからである。これは、中高年の女性が若かりし日の肌を取り戻そうとするのに必死になるのと同様に悲壮感を伴う感情である。いや、悲壮感そのものと言ってもよいはずだ。この悲壮感が、喜びに転化するのか、挫折を経て諦めに転化するのか、余はもう1人の自分を観察するがごとく好奇心を押さえきれなくなったのである。

先の日記に書いたよう猛暑のある日、余はスーツのまま歩いて約40分の道のりを帰宅することに決める。


猛暑の中とは言えども救われるのは、この道のりのほとんどが川沿いに造られた綺麗な遊歩道であることである。造られてからもうずいぶんたっていると見え、植えられている木々にも歴史が感じられる。一応ではあるもののありとあらゆる野鳥がここを訪れることになっている。余も愛犬が生きていた時代はこの道を毎日のように歩いたものであるが、都か区か知らぬがここにいるといって憚らないカワセミの類は終ぞ見たことことがない。その代わり言ってはなんだが、汽水域に属するこの川には春には南風に乗って大量のクラゲが遡上し、桜の散る時期と重なるとクラゲの周りを花筏(はないかだ)が囲むという、いかにも趣のある風情を見せる。また、夏のこの時期にはハゼ釣りをする人達も多い。どうもこの人々を観察するに、釣りをただ楽しむために行うというのでなく、持ち帰って焼くなり、煮るなりして食することを目的にしているようである。余計なお世話であるににしても、この川の土木工事の際に見るヘドロに微量は存在するであろう重金属やらPCBやらのことを想像すると、彼らと彼らの家族の健康を願わずにいられない。もしくは江戸っ子の体というのは、もともと西の生まれである余とは比較にならないくらい強く出来ているのであろうか?


前置きでかなりの時間を割いてしまった。このような道を、歩いて帰るわけであるが不思議と汗はでない。書きかけてそのままにしている例の格闘技の試合からまだ2日もたたないという時期であるから、体に余計な脂肪も水も蓄えられておらず、このような状態まで体を絞れば多くの人間が暑さをそれほど感じなくなり、少なくとも絶えることなくにじみ出る汗の不快感を感じなくともよいことを実感する。これは、環境庁か経産省か知らぬが、一度報告するに値することだ思うた。


川沿いのあちこちに小さな林があり、セミが大声を出して鳴き競っている。これほどに近くで、大量のセミが大声で鳴くとなると、これはうるさいという領域を超え、もはや人に物事を考えなくさせる効果を与えるものである。お陰で暑いということさえ感じずに歩ききることができる。人間にとってのセミの存在意義の一つを発見したような気がして少し満足感がある。このセミであるが、幼虫期間が10年近くあり、それがずっと土の中であり、さらに成虫期間が1~2週間であることを理由に、かわいそうとだとか、みじめだとか、はかないなどと決めつけてしまう輩がいるが、これはどうしたものであろう?


少なくとも私は土の中で過ごしたことはない。生物学的に可能であったとしての話しではあるが、土の中ほど居心地がよく、ストレスもなく、安全なところはこの世に存在しないかもしれない。確かに、土の中では誰々ちゃんのほうが私よりかわいいとか、あいつの方がかっこよくてあそこもでかいとか、同期の誰々が部長になったが俺はまだ平社員ではっきり言って窓際だとか、糞田舎者がセレブリティになってしもうただとかつまらぬ羨望もなく、女上司が怒るときの鼻の穴が大きく開くのが気に食わないとか、部下が指示を受けるときに自分の目を見ないでうなずくのが気に食わないとか怒りの原因も少なかろう。だからセミはあえて土の中で大人にならずに長い時間を過ごすのかも知れないと、ふと余は思うたのである。


しかし、それほどまでに居心地がよければ、土の中に住むセミの数が増えすぎていらぬいざこざが起きてしまう。であるので、数年間を土の中で過ごしたならば、あんたはもうちょっとで寿命だから出ていきなさい、その代わりにあなたの子供をまた土の中に産み付ける権利は与えます、でも死ぬほど鳴いて相手を見つけなければその権利は保証されないですよというセミの世界のルールが存在するのかもしれない。それを人間というものは、全て自分達の目線で考えなければ気がすまぬせいなのか、自分達よりも幸せな動物がこの世に存在するのが嫌なせいなのかは知らぬが、セミはかわいそうなどと勝手な結論を持って満足するのである。


さて、こんなことを暇つぶしに考え歩いていたら、驚くべき現象に遭遇した。セミの羽と思われるものが、歩道の上を少しずつ移動しているのだ。猛暑の中でセミのことばかりを考えいたため、余の頭がいよいよおかしくなったのではないかと思うたが、しゃがみこんでよく見ると、羽の長さの20分の1もない小型のアリがたった4匹でセミの羽を運んでいるのである。余が大切にしているイタリア製のスーツのズボンの中はすでに汗で濡れており、おまけに膝頭のでっぱりまでつけるのは嬉しくは無いはずだが、久しぶりに見たこの自然の驚異にそんな些細なことは忘れてしまい嬉々として家路に着いたのである。