最近、独学で英語の勉強をはじめた。
母国語以外で話せるようになりたいな、そしたらカッコいいもんな。
という単純で不純な動機からだ。
馴染みがあるようでない言語を学ぶことによって、本来の目的ではないところで気づかされることがあった。
それは『ニュアンス』というものの重要性だ。
例えば、「確かに」と日本語訳される【certainly】と【definitely】。
調べてみると、同じ「確かに」でも【certainly】よりもより強調したい、間違いないと確信があるときは【definitely】を使用する傾向にあるらしい。
「言及する」という動詞の【mention】と【refer】もそうで、どちらかと言えば軽く、ちょっと触れるぐらいの『ニュアンス』なら【mention】を選ぶほうが一般的とされる。
そういった表現するうえで必要な曖昧さ=『ニュアンス』はもちろんマイ母国語、日本語にも多数あって日常生活の中で普通に使ってきた。
料理には必ずつきものの【塩・こしょう 少々】。
親指・人指し指・中指の3本でつまんだ大体の量というが、指の太さにもよって違うし、味つけも好み次第なので、あきらかな『ニュアンス』だろう。
買い物に出かけた先の店内で流れるBGM。
ビートルズやその他有名なアーティストの、誰でも知っている曲をアレンジしたもの、これだって『ニュアンス』を変えて演奏しているだけとも言える。
朝のホームルームの出欠確認、名前を呼ばれた小学生は威勢良く返事をする。
「はい、元気です!」
一体なにをもって元気なのだろうか、鼻水を垂らしていても本人がそうだと言えばひとまず【元気】であることを否定できない。
【元気】を定義づけるものは『ニュアンス』にほかならない。
といくつか書いてみて、これじゃ単なる卑屈だなと思ったところで、『ニュアンス』からなにを感じなにを勧めたいかというと、
『適当に生きる』
これである。
多くの事柄が、結局『ニュアンス』で片付いてしまう、良いも悪いも『ニュアンス』、たかが『ニュアンス』されど『ニュアンス』であるとするならば、逆にそれを利用するのが利口だ。
『ニュアンス』に翻弄されるぐらいなら「俺のニュアンスだから」と『適当に生きた』ほうがよっぽど楽だと思ったのだ。
かといって、『ニュアンス』に頼っても数学の成績なんて上がらないし、仕事ぶりも評価されないのは明らかだ。
共同認識で成り立つ社会に暮らしているのだから、自分だけの『ニュアンス』が許されないのも当たり前。
しかし、非情なまでに広がり続ける昨今の格差社会で、その多様な『ニュアンス』に合わせるためだけに苦しみ、鬱病などの心の病に掛かってしまってはいかがなものか?と、こういうことだ。
世の中の複雑な『ニュアンス』を受け入れ、自分の『ニュアンス』と向き合ったうえで接点を探していく。
『ニュアンス』を認める余裕が、先を照らす明るさを生むように思えてならない。
そうだ。
ものすっごく簡潔に言えば、
『明るく前向きに生きる』
ただそれだけのことがなにより重要ということだ。
さて、前向きの「前」の度合いとは、どれぐらいの『ニュアンス』かな。
