芝居の新奇性
もう1週間以上前のテレビですが、「やぎゅう一族のいんぼう」ていう日曜の番組(9・28放送)で、但馬守殿の「夢じゃ夢じゃ夢じゃ夢でござぁぁる」という番宣を見るたび、それだけで2時間番組を見終わったような疲れを感じます。
但馬守殿、あんたの「でござ~る!」は凄いよ。それだけでお腹一杯だよ。もうテレビ観る気になれないぐらいだよ。
さて、この件について一考。
ぶっちゃけ番組の内容自体がもう何度も何度も何度も何度もテレビになってそうで、題名を聞いただけで軽くお腹がくちくなる。
それも問題の一端であるが、但馬守殿の台詞も、あれ一つだけで2時間番組を見終わったような気になるのは、どうよ。
私はそもそもあまりテレビを見ないのだが、見ないくせにここでよく語るのだから食わず嫌いというか素人の横好きというか、つまり好きではないのかと言われれば、見たくはないが、考えたいというか、語りたいというか、ファン並びに製作者ご一同にとっては非常に腹立たしい輩だろうが、言いたいし、考えたいので言う。
台詞一つだけでもどんな番組が知れる。
飛躍して言えば、あの台詞を既に過去見たような、聞いたような気さえする。
2回目のぶっちゃけとして、但馬守役の役者殿は、ああいう役って時代劇でよくやってるっていうか、ああいう感じの台詞よく言ってるよね。たぶん。
正確には言っていないとしても、私のイメージの中でももう何度も何度も何度も言ってるわけだ。
彼のあの台詞一つでどんな番組は想像がつくわけだ。
番宣一つでその内容が想像つくわけだ。それが番組宣伝だろう。
それは多分宣伝として正しいだろう。だが、それではつまらない。と、私は考える。どうかね?
内容の想像がつくような話なぞつまらん。
こういった次第で私はモノを見ないことがあります。それはつまり話に端から興味が無いわけですが、←こういう話が見たい!っていうときもあるからね、いやそれと今回話したい問題は別なので話を続けますが、
台詞一つとっても、芝居というやつは、同じであって良いのだろうか。という点が今回の私のテーマなんだが、如何だろうか。
同じ台詞であっても、それが過去のいずれの芝居と同じ声、同じ心情であるっていうのは、是が非か。
長寿番組というか、例えば時代劇はある意味そのパターンですよな。
同じ時間帯で同じ展開になる。お決まりの台詞を言う。
このお決まりの台詞、を聞いて満足する視聴者はいる。というか、その種の番組においては、お決まりの台詞こそ番組にとっての根幹であるだろう。
だが、一人の役者にとって、同じ番組でもないのに、あの番組のあの台詞と、この番組のこの台詞が同じであるということは、仮に台詞の細かい点が違っていても、同じに見られるということは、どういうことなんだろうか。
台詞の一文字が違っても、やはりそれは違うということになるのか、台詞の一文字が違っても、いや全く違う台詞であっても、この人のこの芝居はワンパターンだ。という評価は宜しくないだろう。
だが、一人の人間の同じパターンのシーンにおいて、同じ芝居になるということは、それは仕方のないことではないか。
または、それこそ期待されるモノ、である場合があるのではないか。
よく分からないが。
私は、こうした問題について語れるほどのモノはなく、今もただ暇に任せて自分の思うところを語っているのだが、芝居の新奇性というか、常に新しいモノを開拓する、新しいものを提供するということの意義について、または演技の型について、ちょっと物思わされた番宣だった。という話です。
まだ明快な答えが出ないので、これもまた宿題としておこう。
誰が採点するんだっていう、話。
まぁつまり私が言いたいのは、たとえ同じ人間の同じ口から出た同じ声の台詞であっても、
シーン毎に違う芝居をして貰わなければ面白くない、と言いたい。
役者の皆様には常に新しい芝居をして貰いたい。
そして時と場合によっては、これは強欲に過ぎるかもしれないが、同じ芝居をして貰いたいのです。
そのどちらをも出来て、演技の幅がある、ってもんじゃないすかね。
言うだけは只でございます。
世の中の女全員観てるんじゃね?
某女芸人ダイエット番組を超見てます。
D-1です。
もうにほんのおんなというおんながぜんいん観てるんじゃないかと思う。
ダイエットはおんなにとって、あれだ、永遠の目的なんだ。
私もダイエットを思わない日はないんだが、実行した日っていうのはないな。
一瞬ならあるんだが。
そんな私ですがあれだけ色んなものを見させられればどれか一つくらいその気になるよ。
どれがいいかって、バナナダイエットなら出来るかな、と思う。
家族一同その気になる。
家族一同その気になってる。
しかるに我が家は祖父の代から朝はコーヒーとトーストなのだ。
コーヒーのない朝なんて、夜明けてないだろ!
と、悲嘆する。
でも、バナナ食うだけでいんだろ。
コーヒーは諦められないので、トーストだけ諦めるとして、一先ずバナナ買ってみようかしら。
食パンより高くつくなあ。
ちっ。
舌打ち。
パラから振り返る
この場合の話題はスポーツであるべきですが、私はスポーツについて門外漢でして、もちろんテレビメディアについても素人ですが、スポーツよりはまだ議論の余地があるわけですので、テーマとしては「テレビ」になります。
パラリンピックは本日閉会式を無事迎えました。
パラじゃないほうのオリンピックは非常にショッキングでしたね。開催国の金のかけ方と、戦争。
戦争って言っちゃうぞ。
オリンピックの最中は戦争とかやらないもんじゃないすか。それが古代オリンピックの意義の一つじゃないですか。
それがよー。なんてことだ。
我々はオリンピックの意義という点で古代に数千年前に敗北しているわけです。
そこんとこの意味を分かってないだろう某国。
情けなくも悲しい話です。
そしてパラリンピック。
私が始めてパラを意識したのは長野パラからなんですが、健常者にせよ障害者にせよスポーツ選手は美しいですね。
金積まれたってあんなふうになるまで練習することは生半の人間には出来ないだろう。
そこんとこ敬意を表します。
それが今回のメディアの状況を見るにつけ、非常にがっくりです。
こんなこと言っても全然造詣の深くない私ですが、それにしてもなあ。もうちょっと公平性というかバランスというか、パラに到ってはもう少し取り上げられてもいいんじゃね。
確かにメダル数も少なかった。
健常者のほうも少なかった。そこんとこどうなってんだと思うけどさ。
メディアの眼がメダルに突出しすぎだし、パラはメディアそのものが少ないよ。
もうちょっとメディアが盛り上がってくれないと一般人もノリ切れないのだから。そこんところメディアの人は普遍性つうか、視野を広げて欲しい。数字ばっかり追われると、こっちの情報の取り方とか偏るんです。
こういう機会ってなかなかないので、もう少し。
しかしあの国は人が多いな!
人海戦術と物量作戦には参る。数で押してくる勢いには負ける。
負けるが、五輪の間にうっちゃられていた諸問題の解決を、わが国も首相のあれはそれで問題解決の諸々を、頼みたいけれど頼みきれないこのわびしさよ。
まとめきれない話で申し訳ない。
小さい問題も気になるが、五輪のあり方とか国際性とか国際関係とか、たまにはでっかい問題も世界的視野のなかで気になるもんです。
という問題提起のままで。