ある特定の世界に生きる…
現実でも仮想でも、どっちでもかまわないケド、とにかくその「セカイ」の中に存在する
そうゆうコトを、なんとはなしに、無自覚に、特段の意味もなく、とりあえず続けてみる
ワタシは、現実のセカイというヤツの中で、すでに数十年の時間を生きている
同時に、仮想のセカイの中で、すでに6年近くの時間を生きている
セカイというのは、簡単に言うと「他者の総和」だ
「自分以外の誰か」という存在の、そういったモノの集合体だ
セカイの中に存在し、生き続けるというコトはつまり、「他者と関わり続ける」というコトだ
ワタシは、あの愛すべき仮想世界にどっぷりと半身(いぁ、ほぼ全身かw)を浸して、すでに6年近い時間を過ごしてしまった
つまりは、それだけの時間に比例して、セカイと関わったというコト
それだけの時間に比例して、「自分以外の誰か」と関わったというコトだ
関わった誰かを明示的に表示するのは「知人欄」
もはや、ソコに表示される知人たちの名前が白く光るコトも少ない
そのヒトたちが、そのセカイの中に「今もちゃんと元気に存在しているよ」と示してくれるような、そうゆう明示的な信号はもはやない
あるセカイの中に「ずっと生き続ける」というコトは、つまるところそうゆうコトなのだと、あらためて気付かされる
生き続けるというコトは、見送り続けるというコトと同義なのだ
見送り続けるというコトは、置いていかれ続けるというコトと同義なのだ
置いていかれ続けるというコトはつまり、取り残され続けるというコトと同義なのだ
取り残され続けるというコトは、つまるところ「今日もココでひとりぼっちだ」というコトを痛感し続けるというコトと同義なのだ
不必要に生き続けるというコトは、常に孤独を感じ続けるというコトと同義だ
長生きなんぞをするものではない
逝くべき時に逝きそびれたりするべきではない
生き永らえ過ぎてしまった古老の孤独とは、きっとこうゆう種類のモノに違いない
「あの時はああだったよね」と、共に語れる相手をドコにも見出せなくなった時、老人はきっとあの世を夢想するのだろう
「ワタシも早く逝きたいものだ」と、阿弥陀の来迎を希求するのだろう
つまりは、頃合の良いタイミングで、先にいなくなった方が勝ちなのである
ワタシはそうゆうタイミングを見出す能力を、先天的に欠いているのだろう
遊びでも仕事でも何かの会合でも、どうゆう時でもワタシは常に最後だ
つきあいが良い… といえば、ワタシほどつきあいの良い存在はまずいないと自負する
コドモの頃から常にそうだ
さよならを言うのがイヤで… と同時に、そうゆうコトバを言うべきタイミングが判らなくて、いつも一番最後まで遊ぶ
電柱の街灯が夕闇にまたたき、夕餉の仕度がすっかり整った居間に向かって、最期のひとりが一目散に駆け去って行く時までずっと共に過ごし、そしてワタシは常にその「最後のひとりを見送る者」だった
そうゆう時、いつもワタシは願った
終わりの時など来なければ良いのにと…
いつまでも、ずっと、一緒にいられれば良いのにと…
今もそう願っている
「何の終わり」についてなのか、「何の継続」についてなのか、もはや自分でも判然とせぬまま、しかし今も確かに、そう願っている
そして、もしそれが叶わぬのであれば、とっとと終わって欲しいものだと、ココロのドコかで願ってもいる
そして、もしどうせ終わるのであれば、最後くらいは取り残されるコトなく終わって欲しいものだと願ってもいる
最後くらいは、愛する者と一緒に終わりたいものだ
取り残されるのは、もうたくさんだ
長生きなんぞ、ゼッタイにするもんじゃない
いま、ワタシは強くそう思っている
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¥13,440
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そうゆうコトを、なんとはなしに、無自覚に、特段の意味もなく、とりあえず続けてみる
ワタシは、現実のセカイというヤツの中で、すでに数十年の時間を生きている
同時に、仮想のセカイの中で、すでに6年近くの時間を生きている
セカイというのは、簡単に言うと「他者の総和」だ
「自分以外の誰か」という存在の、そういったモノの集合体だ
セカイの中に存在し、生き続けるというコトはつまり、「他者と関わり続ける」というコトだ
ワタシは、あの愛すべき仮想世界にどっぷりと半身(いぁ、ほぼ全身かw)を浸して、すでに6年近い時間を過ごしてしまった
つまりは、それだけの時間に比例して、セカイと関わったというコト
それだけの時間に比例して、「自分以外の誰か」と関わったというコトだ
関わった誰かを明示的に表示するのは「知人欄」
もはや、ソコに表示される知人たちの名前が白く光るコトも少ない
そのヒトたちが、そのセカイの中に「今もちゃんと元気に存在しているよ」と示してくれるような、そうゆう明示的な信号はもはやない
あるセカイの中に「ずっと生き続ける」というコトは、つまるところそうゆうコトなのだと、あらためて気付かされる
生き続けるというコトは、見送り続けるというコトと同義なのだ
見送り続けるというコトは、置いていかれ続けるというコトと同義なのだ
置いていかれ続けるというコトはつまり、取り残され続けるというコトと同義なのだ
取り残され続けるというコトは、つまるところ「今日もココでひとりぼっちだ」というコトを痛感し続けるというコトと同義なのだ
不必要に生き続けるというコトは、常に孤独を感じ続けるというコトと同義だ
長生きなんぞをするものではない
逝くべき時に逝きそびれたりするべきではない
生き永らえ過ぎてしまった古老の孤独とは、きっとこうゆう種類のモノに違いない
「あの時はああだったよね」と、共に語れる相手をドコにも見出せなくなった時、老人はきっとあの世を夢想するのだろう
「ワタシも早く逝きたいものだ」と、阿弥陀の来迎を希求するのだろう
つまりは、頃合の良いタイミングで、先にいなくなった方が勝ちなのである
ワタシはそうゆうタイミングを見出す能力を、先天的に欠いているのだろう
遊びでも仕事でも何かの会合でも、どうゆう時でもワタシは常に最後だ
つきあいが良い… といえば、ワタシほどつきあいの良い存在はまずいないと自負する
コドモの頃から常にそうだ
さよならを言うのがイヤで… と同時に、そうゆうコトバを言うべきタイミングが判らなくて、いつも一番最後まで遊ぶ
電柱の街灯が夕闇にまたたき、夕餉の仕度がすっかり整った居間に向かって、最期のひとりが一目散に駆け去って行く時までずっと共に過ごし、そしてワタシは常にその「最後のひとりを見送る者」だった
そうゆう時、いつもワタシは願った
終わりの時など来なければ良いのにと…
いつまでも、ずっと、一緒にいられれば良いのにと…
今もそう願っている
「何の終わり」についてなのか、「何の継続」についてなのか、もはや自分でも判然とせぬまま、しかし今も確かに、そう願っている
そして、もしそれが叶わぬのであれば、とっとと終わって欲しいものだと、ココロのドコかで願ってもいる
そして、もしどうせ終わるのであれば、最後くらいは取り残されるコトなく終わって欲しいものだと願ってもいる
最後くらいは、愛する者と一緒に終わりたいものだ
取り残されるのは、もうたくさんだ
長生きなんぞ、ゼッタイにするもんじゃない
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