プロ塾講師の四方山話

プロ塾講師の四方山話

バリバリの中学受験から大学受験予備校まで、ぜーんぶ経験しているプロ講師が、真面目に、ときに不真面目に、教育やらなにやらを語ります。

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ブログを始めて、他の方のブログを読む機会が増えた。

世の中にはいろいろな先生方がいて、いろいろな価値観があって、
純粋に読んでいて面白いと思う。

ただ、どうにも引っかかることがある、どうして多くの講師の方々は、
そんなにも御自分の指導法や指導力に自信があるのだろうかと。

私は私塾や予備校の講師を始めてもう25年ほどになるが、
いまだに現場では迷うことばかりだ。

誤解されるのはイヤだけれど、あえて言うと、自分で問題を解くのは
簡単な作業だ、これは超難関中学受験から大学受験まで同じ。

今ではずいぶん数は少なくなったが、超難関高校入試の問題も、
さして解くのに苦労することはない。

しかし、生徒に教えるとなると話は違う、何をどう教えるかなど
人がいるだけ方法論がある、絶対的に正しい手法など存在しない。

そもそもそんなものがあれば、誰もがその手法を踏襲するだろう。

「成績を上げる方法は?」と塾長先生に聞いてみるといいでしょう、
「それは、・・・・・・」と流暢に話す先生ほど、具体的に提示する方ほど、
硬直したお考えをお持ちで、頑固であることが多いはず。

私は学歴がもつ利点を否定する者ではない、この社会では
現実に学歴で判断されることなど枚挙に暇がない。

学歴なんかどうでもいい、あんなもの屁の役にも立たない、
そう言うことが許されるのは、学歴を持っている者だけだと思う。

しかし、自分が高学歴だから、どこそこの入試で得点開示して
○○点あったとか、生徒が難関校に合格しているとか、そんなことが
講師としての能力の証左になることは絶対にない。

自分の狭い了見で、物事を理解したつもりになってしまう、
これほど幼稚なことはないのではないかと思う。

私は学生のころ、受験を通して本気で勉強したことがなかった。
「本気で勉強しなければ、旧帝大(具体的な大学名は避けます)に
 合格するなんて、できるわけがない。」
そんなことも当時の先生方から言われた。
そういうことをブログに書いている先生もいらっしゃる、でも、
私はいつもこう感じるのだ。

「それは嘘だ、難関大学といわれる大学に合格することに、
 実態以上の値打ちをつけることは、いい加減やめろ。」

私は、自分自身が本当に怠け者で、いい加減な奴だと自覚している。

だからこそ、見えたこともたくさんある、講師としてはその悪徳も
生徒のために活かすことができるのだ。

私も講師の端くれですので、教科についての

お話もいろいろとしていきたいと思っています。



「小論文」という受験科目がありますが、

これって皆さんどのように勉強しているんでしょうか。

小論文が受験科目として存在することが適切か否か、

そういうそもそも論は、いったん留保しておきます。

最近は推薦入試やA・O入試などが花盛りで、

ありとあらゆるところで小論文入試が行われています。

推薦入試やA・O入試の是非も、ここでは留保しますね。

私は大きな本屋さんの学参コーナーをみるのが大好きですが、

小論文に関する参考書の数が非常に増えました。

手にとって内容を見て、手に取ったからには購入してと、

そんなこんなで20年以上の月日がたつと、

本棚一本全部が小論文関係の参考書、となってしまっています。

しかし、その中で小論文を学ぶために役立つと思えるものは、

さほど多くは存在しません。



そもそも、小論文とはなにを目的として出題されているか、

各大学で特色があるのは当然のこととして、その根底には

普遍的な了解事項が存在するのか、を考えた場合、

確かに、「論文としての体裁を整えていること」という

なんとも曖昧模糊とした決まりごとが頭に浮かびます。

それこそ、原稿用紙の使い方から、句読点の打ち方、

はたまた「主張をしたら論証しなければならない」など、

表現や見た目は違えども、書かれていることはほとんど

外形的な諸規則についてばかり。

当然それらは、守らねばならない最低限の基準ではあるので

意味がないとはいわないものの、大学の先生方が求めている

小論文入試で評価したい部分、には程遠いと思います。



あえて乱暴な言い方をしますが、数学や英語など通常の科目では、

入試において出題されたその設問の解法を知っていさえすれば、

正解にたどり着くことができるわけです。

その解法を身につける過程やその難解さを無視して言うならば、

ともかくも、唯一(これも極論ですが)の正解を獲得できます。

しかし、小論文にはそれがないのです、唯一妥当だとされる正解は、

小論文には存在しないのです。

「そんなこと改めて言われなくったって、誰でもわかってる」

そんな声が聞こえてきそうですが、そう感じる人ほど、

小論文の本質をわかっていません。



小論文の本質、とても一言で述べることなどできませんが、

ひとつのキーワードとしてあげられるのは、

「懐疑」

です、この姿勢にこそ、小論文の大きなヒントがあります。

懐疑という言葉には、物事の意味や価値に疑いをもつこと、

という意味だけではなく、

「自分の存在や見解に対する疑いをもつこと」

という意味があります。

小論文の題材で、白黒がはっきりつくようなものは、

ほとんどないといっていいでしょう。

そこで述べられる合理性などというものは、

所詮賛成派が賛成のためにする、反対派が反対のためにする、

ためにする議論に用いられる合理性なのです。

一見すると、客観的に論証されているようではあるものの、

その根底には、自説の妥当性に対する圧倒的な自信があるため、

情緒的な胡散臭さがあるのです。

そういう意見に対して、人は共感しにくいものなのです。

その意見がもつ覚悟が軽いから、相反する意見に対する

リスペクトがないから、安易な説得だと感じてしまうのです。

だからこそ、自分の立場を疑う姿勢が必要になります。

テクニックとしての反論への顧慮ではなく、

本気で自らを疑う姿勢をもたねばなりません。

その疑いの中で、苦しみ悶えながら搾り出す、

これが、「考える」という行為なのです。

そしてそのような過程を経た意見であるからこそ、

人々はその立場にかかわらず、その意見を尊重するのです。



小論文の学習で悩んでいる生徒さん、

小論文指導をされている先生方、

興味がありましたら、どうぞご連絡ください。

いままで培ってきたもの、たいしたものではありませんが、

なにかお役に立てることがあるかもしれません。

pursuing_the_truth2015@yahoo.co.jp

小論文にかかわらず、大学受験の理系範囲以外なら

ほとんどなんでも大丈夫ですので、

生徒さんでも親御さんでも先生方でも、

どうぞご遠慮なく、怪しい者ではありませんので(笑)

私が最後の受験を終えたのがもう25年以上前、

地元の旧帝大でしたが、当時の印象は、

「5年前に比べたら、ホンマにぬるくなったな」

というものでした、自分は運のいい男だと。

入試制度も入試問題の難易度も、めちゃくちゃ楽だと。

そして、受験生だった自分が今をみればどう感じるか、

「ついてないなあ、もうあと20数年遅く生まれれば」

と思っていたことでしょう、生来の怠け者の私です、

もっと楽に受験を完結できたと思ったはずです。

最近コンビニにおいてある本の表紙によく、

「年収○○○万で子どもを東大に合格させた母」

なんて書かれているのを見かけることがしばしば。

これは最近よく言われている、

「親の年収と子どもの学歴には相関関係がある」

というもっともらしい説がベースにあるはず。

どちらも感じます、なんと品のないことかと。

まじめに努力することができ、ベースになる学力があれば、

東大・京大に合格することは難しくありません。

親御さんに必要なのは、財力などではなく、

子どもに誠実に努力をすることの大切さを教えること、

そのために、自分も誠実に努力する姿を子どもにみせること、

子どもからみて尊敬できる立派な大人であることです。

こういうことを言うと、

「そんなのは理想論だ」
「綺麗事ばっかり言いやがって」

って言われます、必ずといっていいほど。

でも、なぜそういわれるか、理由は簡単なんですよ。

立派な大人であることは、とても難しいことだからです。

子どもには高い倫理を求め、高い志を求めるのに、

自分はそういう人間にはなれないからです。

「超難関校に合格するには、お金がかかる」

そういうことにしておく方が、都合のいいところもあるでしょうね。

上っ面だけをみていると、物事の本質には迫れません。

簡単なことですし、副次的な影響も良いことが多いのですから、

子どもから尊敬される親に、講師になりましょう。

もちろん私も、その道半ばです。

その講師に何を求めるのか、

志望校への合格のみを望むならば、

結果を出せた講師がいい講師となる。

しかし、本当にそうなのか?

優秀な講師の足元には、救えなかった

生徒が累々と転がっているはずだ。

そのことに対する自覚と後悔がなければ、

講師としては幼すぎる。

経験から言うと、優秀な講師は、

以下のふたつを兼ね備えています。

それは、「品」と「度量」。

品のない講師はダメですね、生まれや家柄じゃありません、

その人間から醸し出される、本質的な匂いです。

なにも、清楚で涼やかであればいいってものではありません、

野心でギラギラしていてもいいのです。

他人の人生に否応なしに触れる講師という仕事、

他人の人生を否応なしに変えてしまう講師という仕事、

思いもかけず、負の方向へと変えてしまうこともある。

そういう怖さがこの仕事にはあるのだと、

謙虚に向き合うことができる品格。

自分の技量や能力にいかほどの自信があろうとも、

謙虚に向き合うことができる品格。

そして、もうひとつ必要なのが「度量」。

自分を批判するものを取り込むだけの度量、

自分よりも素晴らしい講師を正当に評価する度量、

自分の間違いや失敗を認めることができる度量、

自分の未熟さを改めるために優秀な講師に教えを請う度量、

これら一般的には「綺麗事」だと言われがちな初心なことに、

誠実に向き合うことができる度量。

私が今までこの業界でみてきた本当に優秀な講師は、

先輩も後輩も、みんなそうだったと思いますね。


「お前はどうなんだよ?」って言われそうですね、

講師の評価は、自分でするもんじゃありません。

別に塾や予備校に限りません、子どもたちにいわゆる受験指導を

する人たち、すべてにおいて言えることがあります。

学校の先生を批判する講師は、たいしたことありませんね、二流です。

学校制度とか、個別具体的な事象についての批判は問題ないですよ、

でも、よくいますよ、こういう講師が、

「だいたい学校の教師というものは・・・・・・」
「学校の先生たちの勉強の教え方は・・・・・・」

こういうのを見聞するたびに、暗澹たる気持ちになってしまいます。

そりゃ塾講師や予備校講師なんてね、そもそも受験屋なんだから。

学校の先生方とは拠って立つ土台が違う、異業種ですよ。

そして、この手の批判の裏側にある、

「そんな学校とは違って、うちの塾は優秀、俺も塾講師として優秀」

っていう思い上がりが情けない、情けなすぎて腹も立たない。

難関校に数多く入れている塾講師や予備校講師ほど、

こういう品のないことを口走ることが多く、

それに同調する子どもたちや親御さんがいるのが困る。

合格実績をこれ見よがしに自慢する講師がいますけど、

それは講師が優秀なのではなく、生徒が優秀なだけです。

私は、バッキバキのの受験屋として長年やってきましたから、

受験屋としての矜持はもっているつもりです。

しかしその一方で、

「自分は教育者なのか?教育者たりえるのか?」

という内への問いかけは常に持ち続けてきました。

学校の先生たちは、困った先生がいることも確かなんでしょうが、

その多くが立派な教育者です、懸命にがんばっておられる。

ちなみに、私は学校の先生をしたことはありませんし、

親族に教師もおりません、教え子にはいますけど。


とにかく、親御さんも生徒さんも、本質を見極めましょう。

ちょっと合格実績がいいぐらいで、教え子が優秀なぐらいで、

いい学歴を持っているぐらいで、あたかも自分の塾や自分自身が

優秀であると言いのけてしまうその幼さや品のなさを。

自分は何でもできる、そう思う人間ほど厄介なのはいない。

何もできないことを知っていながら、あたかもできるかのように

振る舞う人間ほど、信用のおけない者はいない。