(承前)
熱病もいつかは去ります。
今も、その方のことは嫌いではありません。
あまりメディアで見かけることはなくなりましたが、見れば気になります。
雑誌にインタビュー記事が載れば、買ってしまうでしょう。
ですが、今の私は、16歳のときの私と違って、もっとドライにその方を応援できる自信があります。
愛情が薄れたといえば、そうかもしれませんが、質が変わったことは明らかです。
こうして、女性タレントで心を悩ませることなく、大学生になり、卒業して紆余曲折を経て今の職に就き、日々の仕事に追われ、何回か転勤し、…あっという間に25年以上が過ぎました。
そんなとき、「線引き」できない二人目の女性タレントが現れたのです。
誤算でした。
もう、16歳のときのようなことは、自分には起こらないと高をくくっていましたが、見通しが甘かったようです。
今、私は熱病の最中にいます。
滝壺に飲まれている、ともいえます。
「何でこんな小娘に惑わされなくてはならないんだ」と思ってもみました。
あの人を相対化するために、他の女性を好きになろうともしました。
しかし、あの人の吸引力には抗えませんでした。
今は、嵐が過ぎ去るのを、ただ縮こまって待っている心境です。
あの人と話をすることはおろか、間近に見ることもないでしょう。
そんな人を好きになってもどうしようもない、理性では百も承知です。
その愛情を、目先の仕事を処理するエネルギーに転化すればよいことも分かっています。
けれど、どうしたって、どうにもならない何かが心の底に残るのです。
もしかしたら、私は、自分自身の生き方についての選択に納得していないのかもしれません。
あの人は、それを呼び覚ましただけで、究極の原因は元々自分の中にあったような気もします。
でも、そんな分析は何の助けにもなりません。
心の中では醜い感情が渦巻いていても、一歩外に出れば、普通の社会人を演じている。
時には毅然たる態度をとり、時には上司や同僚と軽口を交わす。
内面と外面のギャップに酔うこと、すなわち「俺って、結構大人かも」と感じることが、今の私にできる精一杯の精神衛生法です。
滝壺に飲まれても、いつかは浮かび上がれます。
じたばたしないことです。
問題は、浮かび上がったとき、私が枯渇しているか否かです。
今まで書いてきたことは、吐き出したいけど、誰にも聞かれたくないことです。
私が吐き捨てた文章から「私」を特定することはできないでしょう。
ネット空間に感情を不法投棄している気分ですが、誰かに迷惑がかかることはないでしょう。
唯一の不安は、二人目の「あの人」が万一この文章を読めばどう思うかということです。
偏屈なファンの戯れ言だと思って読み流すか、一笑に付してください。
そして、私にこう言ってください。
「いい加減、目を覚ましなさい」