Ritaの宮殿~読書・音楽・映画つれづれエッセイ~
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セイジ~クリスマスシリーズ①~

 もうすぐクリスマスですね☆

 私はクリスチャンではないけれど、中学・高校をミッション系の学校で過ごしたため、

聖書やキリスト教の教えは純粋に好きで、人一倍強い思い入れを持っています。


 今日はクリスマスにちなんで、イエス・キリストの生き方について考えさせる小説を

紹介します。



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『セイジ』/辻内智貴著・筑摩書房


 とんでもない本に出会ってしまった。
 読み終えた後も、心にズシンと残るものがあり、思い出すたびに嗚咽がこみあげる。

あまりにも痛々しく、当分の間、読み返すことはできないだろう・・・。

この本にはそれ程の衝撃を与えられた。

 例えば身近に、悲しんでいる人がいたとする。あなたならどうするだろうか。
 話を聞いたり、ただそばにいたり・・・。それだけしかできないと言って、

やりきれない気持ちで途方にくれた経験なら、多くの人が持っているだろう。
 今も、地震や津波のニュースがテレビで報じられると、

「大変だな、大丈夫だろうか・・・」

と、被災地の人々を心配しながらも、しばらく経つうちに日々の忙しさに忙殺され、

それを忘れかけている、薄情な自分がいる。

 悲しみという行為は、人間が生きていくために、発達をやめてしまったのかもしれない。

敏感で繊細な人ほど、遠い地の悲しいニュースを見ただけで涙を流す。

自分に直接関係のない事や、とても些細なことなどで悲しみに打ちひしがれるようでは、

正常な生活を営むことなどできなくなる。

 物質的に恵まれた私達の国では、心の傷や孤独感を抱えた人が多く存在し、

カウンセリングがますます広く一般的になりつつある世の中だ。

 しかし、表題の「セイジ」さんは、カウンセリングだとか医学的治療だとか、

そういったものとは全く別の方法で、心に深い傷を抱えた少女(リツ子ちゃん)を救おうとする-。
  
 あの行為を行ったのが、リツ子ちゃんの肉親のゲン爺さんではなく、

赤の他人のセイジさんであったことに、この物語の大きな意味があると思う。
 大人になり幸せな生活を送るリツ子ちゃんは、セイジさんについて「神さまを目の前で見た」と表現する。

その場面で初めて、一見物語の本筋と何ら直接的なつながりはないと思われる前半のエピソードが、

全て一つのある主題につながっていることを確信した。
 セイジさんこそ、他人の十字架を背負い、他人のために自らを犠牲にしようとする、

不器用で優しいキリストだったのだ。

 彼は、語り手の大学生の青年にこう言う。
「人は、悲しい思いをするために生きているんだ」と。そして、
「百年ながらえるより、一瞬でいいから生きたい」と。


 一見、世捨て人のような生活を送るセイジさんにとって、

生きていくためにお金を稼ぎ、ボロボロになるまで身を粉にして働き、

そのうち自分が何のために働いているのかわからなくなってしまうような生き方は、

とても痛々しく思えたのだろう。
 富も名誉も求めず、ただ世界が与えてくれるものを享受し、感謝し、

祈りながら日々をすごしていく、無欲で素朴な賢者-。
 人は誰も、幸せになりたいと願っている。けれど、「幸福で充実した人生」という報酬を求め、

いつしか打算で生きるように変わってしまうこともある。それはとても虚しいことだ。


 生きるために生きること-「生きる」という行為そのものに、意味を見出そうとする。

そんな彼の心は、あまりにも純粋で、まっすぐで、もろく儚い。
 だけど、リツ子ちゃんを救おうと自分に斧を振り下ろし、痛みという恐怖に立ち向かっていたあの時、

彼はきっと「生きている」と心から感じていたのではないだろうか。

 「だって、私、神さまを目の前で見たんだもの。」
 今でも、この台詞を思い出すと嗚咽がこみ上げてくる。

 人は一人だ。誰もその人の痛みや苦しみを、肩代わりすることなどできない。

 だが、苦しんでいる時、自分と同じ痛みを感じ、自分と一緒に耐えてくれる人の存在は、

どんなに大きな励ましになることだろう。
 感じることはまだ山ほどあるが、どれもきれいな言葉にならず、まとまらない。
 こんな本に出逢うのは、最初で最後だと思う。