大阪府、奈良県、京都府の境から南北に横たわる生駒山系には交野山(大阪府交野市)という山頂に巨石がある神奈備があり、大晦日からこの山に登頂し、元旦に御来光を迎える人たちがいます。
古来より 日本人は、初日の出を神聖なものとして扱ってきました。
かつて正月は立春(24節気<中国の紀元前5世紀から紀元前221年の戦国時代に確立>の最初)の頃だったので、大昔の人々は、立春の頃に初日の出を遥拝していたのではないでしょうか。
交野山のように神奈備と呼ばれる山は、麓から見て三角形であったり、形が整っていて秀麗で、周りの山から独立した峰であることが多いようです。
また、必ずしも最高峰というわけではなく、かえって小高い山が多いように思います。
旧の正月は一定しないので、大昔、麓から立春に神奈備の山頂に昇る朝日を遥拝していたと仮定し、その麓に当時の何らかの痕跡があるのではないかと、地図と睨めっこをして調べてみました。
交野市の交野山については、この山に立春に日が昇るのは、麓の交野市倉治という地域から見たときです。
伊勢の朝熊山(後述)も同じ方角にあたります。交野警察署あたりから見るとこの方角になり、交野山が最も綺麗な形に見えるのです。
また、交野市寺や私部には、交野山と並んで見える龍王山という弘法大師所縁の山から日が昇り、その方角の山裾には住吉神社(創建年不詳、祭神:住吉三神)があります。
この神社の元々の祭神は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(以下饒速日命)と伝えられていて、山の名称を考え合わせると興味深いです。
そして龍王山の先では、京田辺市の石船神社(創建年不詳、祭神:饒速日命)、伊勢市の豊受大神宮(後述)が立春の日の出の方角にあたります。
この龍王山には、茨木市の溝咋神社(創建年不詳、祭神:玉櫛媛命、媛蹈鞴五十鈴媛命)から、また東出雲の孝霊山から見ても立春に朝日が昇ります。
孝霊山の麓には、下照姫や須勢理毘売命を祭神とする古社があり、日本海から伊勢までの日の出のレイラインを構成しています。
交野市の市街地から生駒山系の方角は東のように錯覚しがちですが、実際には東から南側に振っていて、ほぼ立春の日の出の方角にあたります。
生駒山系の北部、交野市の哮峯の磐船神社や京田辺市の石船神社に降臨伝説のある饒速日命の「虚空見つ日本の国」とは天の川の北側に広がっていた交野が原のことではなかったかとも思えます。
このように、神奈備が立春の日の出の方角に見える地域で、関係がありそうな古い神社などが、他の地域でも確認できました。
出雲神話や風土記に登場する神奈備を見てみましょう。まず島根県の仏経山、この山には出雲市大社町や出雲で最も有名な出雲大社(もと杵築大社、創建年不詳、祭神:杵築大神)から見たときに立春に日が昇ります。
その他の地域でも、神奈備と思われる山を調べてみると興味深いことがわかりました。
島根県松江市古志原町の山代神社(創建年不詳)には、茶臼山から立春の日に朝日が昇ります。
山代神社は西暦1680年に茶臼山の山腹から現在の小高い山に移されていて、祭神は地域開発神、山代日子命と伝わっています。
中海と宍道湖がまだ繋がっていた頃、越の国からこの地域に住み着いた人たちが、立春にこの小高い山から茶臼山に昇る朝日を拝して、松江の平野を開拓していたのでしょうか。このあたりから望む茶臼山は、やはり美しい山容を見せています。
そして、大国主命とスサノオの末娘の須勢理毘売が国造りを語り合ったかもしれない伯耆富士といわれる大山に立春に日が昇るのは、かつて中海の小高い小島であった米子市の粟嶋神社(創建年不詳)で、祭神は大国主命の国造りの協力神といわれる少彦名命とされています。
この神社と大山の間には日下という地名があり、交野市と同じように扇状地に縄文期からの遺跡や日下神社、大神山神社本社(祭神:大穴牟遅大神)があります。
粟嶋からは日の出のラインが少しずれるため調べてみると、少し内陸側にも小高い島の名残のような場所を見つけることができました。
このラインも的矢湾まで続く壮大なレイラインとなっています。
九州へ渡り、福岡県北九州市では、一宮神社(祭神:大歳神、建御名方神、神倭伊波禮毘古命)に神功皇后の伝説が残る皿倉山から立春に朝日が昇ります。
さらに久留米市の筑後國一之宮、高良大社(鎮座367年、祭神:高良玉垂命)・高良玉垂命神社や祇園山古墳からは高良山が立春の日の出の方角に当たります。
また、和歌山県和歌山市の紀伊國一宮の日前神宮(創建神武天皇2年、祭神:日前大神)(もともと紀伊國一宮の伊太祁曽神社、(創建年不詳、祭神:五十猛命)があった場所)からは、大日山から立春に朝日が昇ります。
次に、神武東征でイワレヒコが生駒山系の麓、大阪府東大阪市の孔舎衙で白庭登美のナガスネヒコと交戦し、弓をひいた方角にある山が饒速日山(生駒山頂の北側)といわれています。
この山は、孔舎衙から立春に日が昇る方角にあり、この山に昇る朝日に向かって弓を引いたことが敗因であるとしてイワレヒコは兵を退いたことになります。
縄文海進の名残で、大阪湾が河内地域まで広がっていた頃、この東大阪市北東部は既に陸地で、立春に饒速日山に昇る朝日を拝していたと考えられないでしょうか。
さらに、奈良県田原本町の鏡作坐天照御魂神社(創建紀元前92年、祭神:天照国照日子火明命)と桜井市の邪馬台国大和説の根拠となっている纏向遺跡あたりに立春に朝日が昇るのは、三輪山からで、纏向遺跡周辺からは一段と美しい三輪山を見ることができます。
三輪山からさらに日の出の方角に視線をのばすと三重県大紀町の瀧原宮、瀧原並宮(ともに創建年不詳、祭神:天照大御神の御魂、速秋津日子神と速秋津比賣神とも)があり、その後方の浅間山から日が昇ります。
そして逆に三輪山から真後ろに振り返ると、さらに興味深いことがわかりました。
立春の夜明け、三輪山に向かって立春の日の出の方角から、後ろの正面に振り返れば、田原本町の鏡作坐天照御魂神社(創建紀元前92年、祭神:天照国照日子火明命)、広陵町の櫛玉比女命神社(創建年不詳、祭神:櫛玉比女命(御炊屋比売命))の先に、スサノオノミコトが鎮座する「日本火出初社」といわれる島根県出雲國一宮の熊野大社(創建年不詳、祭神:熊野大神櫛御気野命)があります。
その先はスサノオ所縁の八雲山(御室山)、スサノオ生誕地説のある出雲市平田町の宇美神社(創建年不詳、祭神:布都御魂神)と愛宕山や石上神社に至ることがわかりました。
立春の朝日に向かって、スサノオ生誕地に布都、八雲山には布都斯をあてると、三輪山では布留となるでしょうか。スサノオの家系3代が一直線に並ぶ日の出のレイラインとなっています。
また同じ方角に田原本町には、富都神社、三輪山の先には出雲の地名があります。
次に、三重県伊勢市内中心地、豊受大神宮(創建年不詳、祭神:豊受大御神)(神宮外宮)には朝熊山から立春に日が昇ります。
また、京都府宮津市の丹後国一宮、籠神社(創建年不詳、祭神:彦火明命)には福井県高浜町の若狭富士と呼ばれる青葉山から立春に日が昇るのです。(青葉山を目視するには神社からさらに山に登る必要がありますが・・)
そして奈良県生駒市白庭には、神奈備か祭りの庭か定かではありませんが、奈良市の登美ケ丘の真弓塚から、また真弓塚には三笠山から立春に日が昇ります。
立春に水平線から日が昇った後、南寄りに昇りながら神奈備山頂に日が差し掛かるまでの時間差のため、これらの朝日を拝していたと思われる麓の場所は、少し北側にずれているようです。
そして、多くの場所に共通しているのは、縄文海進の時代には海や湖の島であったり、平野部の小高い場所であり(篠山市:高城山と諏訪明神や大蛇伝説のある富ノ山あるいは飛ノ山、丹波市:霧山と大歳明神宮など内陸にもみられますが)、
その後陸地が拡がり(葦原の中つ国)人が住み着くようになり、現在まで数千年もの間、地域の中心地として繁栄してきた場所であるということです。
神奈備と麓との関係が有史以前に遡り、神社などの成り立ちが不明であることから、この関係をはっきりと証明してくれないことが残念です。
ですが、その地域が、神奈備から昇る立春の朝日を神聖なシンボルとして開けてきたとすると、まるで意志を持って行われた有史以前の国土開発のようにも思えます。
そしてそれは、その地の古くからの神社に祀られている祭神たちと関係があるのかもしれません。
では、立春以外の節気に神奈備に昇る朝日と関連しそうな場所はないでしょうか。
大和國一宮の桜井市の大神神社(創建最古、祭神:大物主大神)の拝殿からは夏至に三輪山に朝日が昇りますが、建立されたのは江戸中期とされています(大神神社の祭神を否定するものではありません)。
また、同様に神武天皇陵にも夏至の朝日が三輪山から昇ります。場所の選定にあたり夏至に朝日が昇る土地が選ばれたのかもしれません。
近年では、大津市の近江神宮も京都市山科区の日向大神宮から見て夏至の日の出の方角に建立されています。
奈良市春日大社(創建768年、祭神:春日神)には春分の朝日が春日山から、さらに伊勢の神宮内宮(創建垂仁天皇26年、祭神:天照坐皇大御神)には、夏至の朝日が富士山から昇ります。
少し興味深いところでは、東大阪市の若江鏡神社(創建年不詳、祭神:大伊迦槌火明神)は、春分の日の出の方角の生駒山系南部に向いていますが、同時に、夏至には饒速日山から、冬至には三輪山の方角から日が昇り、入射角と反射角が一致するこの二つの山に昇る朝日が、まるで秘かにお互いに春分の日の出に向いた神社の鏡に映し合っているように見えます。
私が調べた限りでは、立春の日に神奈備から昇る朝日を拝する場所にあたる神社や史跡などは、立春以外の節気に日の出を拝する場所にあたる神社や拝殿などより、創建や成り立ちの時代が古いように見えるます。
これは私の想像ですが・・その昔(紀元前)に出雲に海を渡ってきた者があって24節気を伝えました。
そして、「この国の美わしい土地の東の山の上に昇る立春の朝日に名を付けて奉り、ともに国を豊かにしよう。」と先住の国主たちを出雲に集めて打ち合わせをして、各地に神奈備と観測地点を定めたのです。
縄文海進終了後に拡がっていった平野で治水を行ったり、鉄を使った農器具を普及させながら開拓し、農耕地の拡大を図っていきました。
各地の国主の姫を巫女として神奈備に昇る立春の朝日に神名をつけて奉り、眩しい朝日を鏡に映して観測し、日読みをして二百十日の風が吹くまでに収穫を終えるよう立春を稲作の基準に据えて栄えていきました。
しかし、いつの頃かなぜかその歴史や功績が消し去られてしまいました・・それでも現在まで各地で毎年、日の神や巫女を祭神として豊穣を祈ってお祭りをし(鏡餅の起源は、神奈備とそこに昇る朝日ではないか?)、実りに感謝しながらその営みは綿々と続いてきたのです。
大山山頂の虚空から、大国主命と須勢理毘売の目を借りて、少彦名命の粟島を背に立春の日の出の方角を見下ろせば、一直線に遥かに摂津溝咋の地を抜け、天孫が天降ったとされる生駒山系に至り、登美ナガスネヒコの本拠地の白庭、真弓塚、佐紀古墳群(神功皇后陵など)、平城宮跡、三笠山からさらには伊勢天の岩戸、倭姫命をいざなった伊佐波登美命を祀る志摩國一宮、伊雑宮(創建年不詳、祭神;諸説あり)と佐美長神社(創建年不詳、祭神:大歳神)を超え、的矢湾の岬と岬の間(海の岩戸?)の水平線から立春に朝日が昇ります。
出雲から的矢湾までの壮大な日の出のレイラインが描かれています。
また、神武東征の発端となったとされる日向高千穂には、孔舎衙や白庭の方角から夏至の朝日が昇ります。
出雲(大山)へ昇る穏やかな立春の朝日と、日向高千穂へ昇る激しい夏至の朝日の二つの日の出のラインが、生駒の白庭でぶつかるのは何ともできすぎた話に思えるのです。
立春に神奈備から昇る朝日に思いを馳せるとき、かつての日下に、神話のベールに覆われて見失われた先人たちの国造りの歴史の一片を垣間見たような気がするのは私だけでしょうか。
遥か昔、各地の神奈備の上に奉じられた神は、「海を照らし、国を照らして昇る日の出、天の日明かりである、暖かで穏やかな立春の朝日」、ニギハヤヒだったのではないかと思うのです。