子どもと暮らし

一緒に買い物に行き、スーパーで値段のこと、

流通のこと、ものの価値について話して、

一緒に料理をして、ものの扱い方や癖などを教え、

一緒に作り方を調べたり、教えたり、

一緒に食べて、いろいろな話をして、

 

洗濯も、掃除も、遊びもして、教えて、

人と話すこと、人と関わるところみせて教えて、

 

社会のこと、人間のこと、親子のことを

ホワイドボードを使って

毎日、何時間も伝えていたら

 

それは

「父親」が「子育て」を

している様子のひとつで

 

立派な父親だ、

愛情深い父親だ、

 

ということになるのだけれど、

 

でも、何度も何度も、

「俺は、子育てをしていない」

と、話していただいてきました。

 

 

最初は意味がわからなかったけれど

「父親」をやっていたり

「子育て」をやっているわけではなく

 

一人の人として、

大人として、

男として、

 

感謝を伝えている、

愛を伝えている、

 

どれほどの想いが

あるかを伝え

 

幸せに生きるために

大事だと感じていることを

いつもどこでも何を通しても表現している、

とみえてきました。

 

 

「親」をやるというのは、

嘘をつくことでもあるのです。

 

「子ども」ではなくて

「親」という「役割」を

みることにもなるのです。

 

子どもにとって、

それは不自然で違和感のある

在り方で

 

わたしは親をみて

違和感も距離も

感じていました。

 

 

「親」をやろうとすれば

「親」である自分でいれば

意識的にも、無意識的にも

 

「自分の親」

「理想の親」

「世間一般的にOKな親」を

参照し、参考にし、

それらに自分を合わせていき

 

結果的に、

子どもをみなくなってしまうのです。

 

子どもを大事にしたいし、

愛を伝えたいし、

幸せを願っていても

子どものために動いても

 

子どもに伝わらない。

ということが、起きてしまいます。

 

ものすごく、もったいない。

 

わたしは自分の何が間違えていたのか

自分の問題が

みえて、

 

とてもよかったです。

 

自分が何かちがうのはわかるし

悩んでいるし、

 

相談もして、話してみたら

それなりの答えをもらい、

励まされ、納得もする、

 

自分だけじゃないと知り

安心をして、

楽な気もちにもなる。

 

でも、

でも、

 

やっぱり、やっぱり、違うと思う、

というモヤモヤしたもの。

 

誰に聞いても

どこで何をどうみても

曇っていたものが

 

メンターに触れると

きっと晴れると思います。