Bはキリスト教徒です。
昨日ファミレスで食事中、Bが話してくれました。
家で勉強をしている時に、神さまの声を聞いた。
“ B , I ‘m here. ”
自分は神さまの存在に懐疑的だった。
今まで神さまに側にいて欲しい時もあったけど、
それでもその存在を疑っていた。
けれど神さまの声を聞いて、神さまはいるんだと思った。
日本では、知らない人に
じろじろ見られることが多くて
嫌な思いもしたけど、
自分はその人たちを許す。
それがキリスト教の教えだから。
自分はキリスト教徒としてもっと成長したいから、
日本にもう少し長くいることにした。
日本でも教会を探して行ってみるつもりだ。
とても満ち足りた、嬉しそうな顔で言われました。
彼は日本の地方都市では目立つから、
色々と生活しづらかったり嫌な思いもしてきました。
だから、気持ちの収めどころが見つかって
よかったなと思いました。
けれどその一方で、
彼が急に知らない人になってしまったような、
よく分からない存在に思えました。
おそらく、私が宗教というものを
主観的に理解し体感したことが無いからだと思います。
もちろん、神道的な考え方は自然と身に付いていますし、
八百万の神さまの存在は漠然と信じています。
いたるところにいらっしゃって、
守ってくれているんだと思っています。
亡くなった祖父母を思い、仏壇に手を合わせます。
それは生活の一部であり、
Bの信仰とはまた違うように思います。
Bの話を聞いている間の自分の感情が、
私には分かりませんでした。
嬉しかったのか悲しかったのか虚しかったのか寂しかったのか。
でも結局は、
Bがもっと楽に生きられるようになるなら、
私はそれでいいんです。
彼が満ち足りて嬉しそうに笑うなら、
私はそれでいいんです。
私達は国も人種も違うから、
お互いに分からないことが沢山あります。
話をして理解しようと努めて、
理解出来ないことはそういうものかと受け止めて。
今回は、受け止め方が分かりませんでした。
分からなくて、呆然としてしまいました。
でも結局、彼が幸せならそれでいいんだと思います。
Bが私をなんでも受け入れてくれるから、
私は今とても楽に生きられています。
Bにとってのそれが私ではないことが少し残念で、
神さまに嫉妬してしまいます。
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