シン【23】古地図を片手に赤馬関を歩こう!③ | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。


下関市で開催された『古地図を片手にまちを歩こう 赤間関編』に参加したRieruです★

ついに今回の記事で最後になりました。



コースは以下の通りです。

赤間神宮(旧阿弥陀寺)春帆楼・日清講和記念館本陣伊藤邸李鴻章道引接寺亀山八幡宮大阪屋跡末廣稲荷神社教法寺

残るは『末廣稲荷神社』と、『教法寺』。
今回は『末廣稲荷神社』から・・・の前に、赤間通りから。


『穴門』、『穴戸』、『赤馬ヵ関』、『赤間ヵ関』、『馬関』等・・・


下関にはいろんな名前があり、多くの人が行き交った事が分かります。
ちなみに『下関市』の名前は、明治35(1902)年6月1日から使われたようです。

下関駅から赤間神宮に向かうまでの道中で見付けた碑ですが、車道側から見ていません。


もしかしたら、この銘文は裏側かもしれません・・・こんな事が書かれていました。



  昭和20年代まで稲荷町と呼ばれたこの地の町名は 大同4(809)年の創建と伝えられる稲荷神社に由来するもので 北前船の寄港で栄えた江戸時代には 平家生き残りの官女らとの血縁が語られる遊女に端を発した格式の高い花街として広くその名を知られた。
  最盛期 大阪屋を中心とした花魁芝居や先帝祭の上臈参拝行事の起源の地としても知られ また幕末維新の時には 高杉晋作 伊藤博文ら若き志士たちが往来した所でもある。
昭和61年4月吉日建立
赤間町自治会 下関料飲組合



この碑の近くに、例の『末廣稲荷神社』があります。鳥居はたまたま下関駅から赤間神社へ向かう道中で見付けたもの。


大阪屋跡から階段を上り、別ルートから参拝しました。


リーフレットには、このように書かれています。(碑と重複しますが)




末廣稲荷神社


大同4(809)年創建。下関最古の神社といわれ、商人から厚い信仰を集めた。第二次大戦中に焼失。戦後有志によって再建された。




下関最古!空襲で消失したとありますが、古い石灯篭がありました。

AM 11:10

そして、いよいよ『教法寺』へ。とんでもなく太いソテツが対になっているのが目印ですが、戦後に植樹されたものなのですかね?


これより先には行かず、ガイドさんの話に耳を傾けました。
その前に・・・リーフレットには、このように書かれています。



教法寺

元応年間(1319〜1321)年、教法房浄信により創建された寺。文久3(1863)年には、ここを本陣としていた萩藩の先鋒隊と、奇兵隊が衝突した「教法寺事件」の舞台となった。



『教法寺事件』?
そう、ガイドさんの話は、この事件の内容でした。
説明板にもその内容が少しだけ書かれています。(リーフレットと重複しますが)



教法寺

元応年間(1319〜1321)年に流れ着いた木仏(開基仏)を安置するため、教法房浄信によって創建されました。慶長6(1601)年 木仏と寺号を本山より賜り長門地方で最も早く公認された、浄土真宗寺院です。
文久3(1863)年8月16日、阿弥陀寺(現在の赤間神宮)を屯所としていた奇兵隊が、萩藩正規軍の先鋒隊宿所であった教法寺を襲い、先鋒隊士が切り殺される事件が起きました。(教法寺事件)。この事件後、騒動の責任を取って宮城彦輔は切腹、奇兵隊も秋穂への転陣を余儀なくされます。さらに高杉晋作は奇兵隊総督を免じられました。翌年の四国連合艦隊下関砲撃事件(下関戦争)では、赤間関総奉行で萩藩士の内藤佐渡が教法寺辺りまで出陣するも、連合艦隊の砲撃に恐れをなして、戦うことなく戦線を離脱しています。

(大正12年撮影)



先鋒隊と奇兵隊・・・少しのすれ違い(勘違い)で、2人の命が失われた、痛ましい事件でした。
この教法寺の裏側には『本行寺』があります。コースには無い場所でしたが、四境(小倉)戦争等で亡くなられた志士たちのお墓を紹介していただきました。
一応これでコース終了です。とりあえず下関市役所近くまで移動。

こんな場所にも、モニュメント!




龍馬が最初に訪れた
入江和作 邸跡

  「奈良屋(ならや)」と称して酢の醸造業を営んだ豪商入江家屋敷跡。
  当主の入江和作は、高杉晋作や奇兵隊などの活動を物心両面から支えた一人でした。
   勤王の志士たちの信頼も厚く、慶長元(1865)年閏5月、薩長同盟締結に向けて下関を訪れた坂本龍馬が最初に訪ねた先が同家でした。



入江さん・・・ありがとう。

田中町に到着したところで、古いレンガ造りの建物を発見☆


後日調べてみると、『旧宮崎商店』というらしいです。またいつか機会がありましたら、訪ねてみたいものですね。

こちらでも、金子みすゞさんの碑を発見しました。

AM 11:35

碑には、このように書かれています。



商品館跡

  金子みすゞは、大正12(1923)年、20歳のとき、生まれ故郷の山口県大津郡仙崎村(現在の長門市仙崎)から、下関の母のもとに移り住みました。そして、この場所にあった商品館内の上山文英堂支店で働きながら、たくさんの詩を創作しました。
  『童話』などの雑誌に投稿した作品が、西條八十から絶賛され、全国の若い投稿詩人の憧れの星となりました。
  昭和2(1927)年夏、みすゞの願いがかない、師と仰ぐ西條八十と、下関駅(旧下関駅)で念願の出会いをしました。



え!この日偶然『旧下関駅』があった場所に参りましたけど!

わざわざ東京から下関まで訪ねるなんて・・・いかにみすゞさんが才能豊かな方で、詩人として惚れられていたかという事がわかりますね。

でも、みすゞは繊細な方だったから・・・私だったら人生に絶望しつつも東京行きの切符を買い、四條先生を頼って東京で文芸活動をしたかもしれません。

ふと気になって、中原中也さまと時代が被っているような気がして調べてみました。

みすゞさんが4つ歳上で、同じ4月生まれ。・・・だからどうした?と言われそうですが・・・


碑の詩の部分はコチラ☆



キネマの街

あをいキネマの
月が出て
キネマの街に
なりました。

屋根に
黒猫
居やせぬか。

こはい
マドロス
來やせぬか。

キネマがへりに
月が出て

見知らぬ街に
なりました。



『怖いマドロス』・・・マドロスは、水夫や船乗りの事だそうです。
猫好きとしては『黒猫』に萌えるところですが、この『怖いマドロス』さんと同じ並びならば、『気味の悪い黒猫』というニュアンスを含むのでしょうか?
キネマ・・・シネマ・・・映画・・・日常も非日常も混在する、少し不気味で不思議な世界を想像してしまいました。

不思議な世界は、こちらにも。
洋風なビルの屋上に、日本家屋と・・・塔?


ガイドさんのサポーターさんが教えてくださったのですが、『旧秋田商会』の屋上だそうです。

じつは以前訪ねた時、あの空中庭園の真下(三階)を見学した事がありました。


『下関市『旧秋田商会ビル』の3階、そして空中庭園…しつこくてゴメンなさーい!』今月上旬にP室にお邪魔すると、読み聞かせボランティアのKママさんもいらっしゃって、Sママさんと共に桜餅をいただいたRieruです★美しい桜餅…これは…ありがと…リンクameblo.jp


ものすごく屋上が見たかったので、遠目でも見れて大興奮です。

と、このように古い建物も好きな私ですが、今回のイベントの終わりにサポーターさんから、「歴史がお好きなんですか?」と聞かれたので、咄嗟に


「歴史はまぁ、“ちょっと”という感じで・・・じつは古い建物の方がもっと好きなんですよ〜。」


なんて答えてしまい、『ちょっと何言ってるか分かんない参加者』と思われたかもしれません。このようなイベントに参加しておきながら?と。
最終的には会話の中でボロが出て、『門司と下関の文化遺産(建物)の事をほとんど知らない人』認定されたに違いない。


アイタタタ


(ガイドさん&サポーターさん、70代の男性さん、最後に話しかけてくださったおひとり参加の女性さん、ありがとうございました黒猫)