シン【18】古地図を片手に秋芳(美祢市)を歩こう!④ | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。


巷では、『マヌルパン』が流行ってるらしいということを知ったRieruです

・・・あの、『マヌルネコ』を模したパンなんじゃろうか?


イテテ


(全然違います、かすりもしない・・・)


マヌルパンは『韓国屋台グルメの進化系ガーリックパン』と言われ、『マヌル』は韓国語で『ニンニク』というそうです。ほ〜、日曜日は食べれないわね!と、いつか食べる気満々の女は、『古地図を片手にまちを歩こう』秋芳編に参加しました。

美祢は、『BEハート秋吉台』号(車)で、スタート地点『堀ノ内』まで連れて行ってもらえます。



前回の『秋吉宿(あきよしじゅく)』からほど近い場所に、こんな白い石がありました。

AM 11:37

あっ、石灰石じゃ!石垣にも使われていましたが、美祢ではこのような白い石を加工したものが見られるんですね。


萩市では黒い玄武岩に萌え、美祢市では白い石灰岩に萌える・・・ついに白黒揃いましたね!

ニヤニヤしながら、『秋吉八幡宮』へ。


かちらには6世紀後半の古墳があり、『秋吉八幡宮古墳』と呼ばれています。近くには、同じく6世紀後半の『大里古墳』もあり、環頭太刀が出土していて有名なのだそうです。
パンフレットから画像はお借りしましたが、中身の飾り(龍?)がはめ込み式らしく、珍しいものですね。


秋吉台科学博物館蔵なので、いつか機会があれば自分の目で見てみたいです。
話は秋吉八幡宮に戻って・・・リーフレットには、大津郡(現 長門市)に百済王が漂着し、秋吉郷まで来て崩御され、その神霊を村の惣鎮守としたことに始まるとされる。裏山には経塚、狼煙場があった。石段前の『文久の石灯籠』はかつて八幡宮御旅所にあり、秋吉宿の常夜灯として親しまれていた。道路拡張に伴い、ここに移築。と書かれていました。
これが、移築された『文久の石灯籠』ですか。


車道を挟んでの見学になりましたが、灯籠の袂にあった説明板を拡大してみたところ、このように書かれていました。



市指定文化財(工芸品)
文久の石灯籠
(昭和58年12月23日登録)

   この灯籠は、江戸時代末期の文久元(1881)年に、萩の石工 中村熊蔵重幸により製作されたものである。
  総高4.5mにも及ぶ。稀に見る大きさで基壇は四角形、割石を丁寧に組み上げた上部に入母屋型の屋根を張り出させた灯籠を置いている。また、基壇と灯籠の間の台座には、海の波しぶき、卍字型の支那風の模様や紅葉など、面によって違う彫刻が施されている。
  当初は秋吉八幡宮の御旅所近くにあった下宿の前に建てられており、秋吉宿の常夜灯の役割を果たし、通行人に親しまれていたという。道路の拡張工事により、昭和43(1968)年現在地に移築された。

美祢市教育委員会



ちなみにパンフレットには 、百済王が野波瀬浜に渡来し、秋吉で亡くなったという伝説があり、海の潮を汲む神事が行われると書かれていました。
野波瀬・・・北上して行くと青海島がありますが、あの近くにある場所まで汲みに行かれているのですか。


こちらの八幡宮の拝殿にある彫刻がウサギさんらしいので、卯年の時にでもゆっくりと参ってみたいです。

『稲川』を越えまーす。


総延長10km以上(日本第3位)の秋芳洞に流れている川の下流が、こちらになるそうです。
あちら側から流れた稲がこの川に現れたということから、名前が付いたような?説明をされていました。

さて、街道は車道(歩道)沿いの薮の中であります。
下の画像は、その街道の切れ目になるのだとか。


へぇ〜。

街道沿いにある『随徳(ずいとく)』という地区には、『六地蔵』があるそうで。


画像は別の道の先にあったので遠くて見辛いですが・・・宝歴4(1754)年の銘があるようです。
この近くには、『出店』という茶店もあったそうですよ!
あれ?そういえば飲み物を持ってきたのに、一滴も飲んでいません。結局解散して依ちゃんの車に乗るまで飲まずじまいでした。


さぁ、どんどん歩くよー!

この辺りはアスファルト敷ではなく、まさに江戸時代の街道!という感じです。


地面がフカフカして歩きやすい♬.*゚

おお〜、石のオブジェが出迎えてくれています。戻って来た、という感じ!


『石のまち秋芳町』・・・秋芳町は昭和29(1855)年4月1日に秋吉村・岩永村・別府村・共和村が合併して発足し、平成20(2000)年に美祢市・美東町と合併して美祢市になったそうです。
私的には秋芳町の方が馴染みがあったりして。
ちなみに『美祢』は、山の嶺ということから出来た地名と聞いています。嶺、峰、美祢。なるほど。

わー、秋芳洞の近くに戻ってきましたよ。駐車場から直ぐに秋芳洞に向かうので、こんな湧き水が湧いている場所なんて知りませんでした。


石碑がありますが、なぜか松尾芭蕉の句碑のようです。


古池や蛙飛び込む水の音

こちらにも石碑が。


この場所に皇太子(後の昭和天皇)が車から降りられた、という記念碑のようです。
大正15(1926)年に来られたわけですが、元々は『滝穴』と呼ばれていた鍾乳洞を『秋芳洞』と命名されたのは有名な話ですよね。(←微妙に違うのか?)
正確には『あきよしどう』と読むらしいですが、つい『しゅうほうどう』と言ってしまいます。
皇太子が訪れた時の事が書かれているらしい石碑もありました。


高い場所にあるので、見上げる感じです。ええ、よう読めません。
秋芳洞は洞内空間の広さでは日本一ですが、近くには景清洞や大正洞があり、まだ秋芳洞へ行った事が無い方には、大正洞→景清洞→秋芳洞の順で行くと盛り上がるのでは?と、勝手にオススメしておきます。

次の場所は『毘沙門天』とありますが画像が無い為、リーフレットに書かれていたことを。
木喰仏(もくじきぶつ)3体が安置されている。微笑仏(みしょうぶつ)と呼ばれる、素朴で円満な表情の仏像彫刻で知られる甲斐生まれの高僧“木喰上人”木喰五行明満(1718-1810年)の作。木喰上人は千体の仏像を彫ることを発願し、諸国を遍歴して修行。寛政9(1797)年に、広谷の中島家に逗留し、この3体を彫作。

その中島家の蔵が、こちらだったかどうだったか・・・


私の記憶力が怪しいので、画面を小さくしてます。なんかすみません。
この蔵があった近くに説明板があり、吉田松陰先生の事も書かれていました。



歴史の道(赤馬関街道)

  藩政時代、藩主の居城が萩にあったことから萩城を起点として藩内の交通網が発達した。
  この赤馬関街道もその一つで、萩と赤馬関(今の下関)を結ぶ重要な街道であった。
  往年、武士や庶民そして又、憂国の志を抱いた維新の志士達はどんな思いで歩いていたことか・・・
  吉田松陰が21歳の時、萩から九州遊学の旅をしたのもこの街道であった。
  このたび、この赤馬関街道を調査し『歴史の道』として修復整備したものである。
  吉田松陰の西遊日記には次のように記されている。
  嘉永庚戌(注①)八月二十五日、晴早発(注②)。械ヶ坂(かせがさか)を越えて夜遅く。明木より右折して馬関(注③)の道に就く。
是れより雲雀山上迄は石径(注④)通じ難し。絵堂村以西は土地やや可なり。
到る所畠作の物をみるに、甚だ不景気なり、蕎麦を最とす。其の他 吉貝・牛蒡・蘿蔔(注⑤)の類皆然り。稲は却って可なり。然りと雖(いえど)も、是れ亦(また)見るに忍びざる所なきにも非ず。絵堂・秋吉・岩長(注⑥)・河原の数駅を経て、四郎ヶ原崎に宿す。時に日僅かに三竿(注⑦)。

注釈
   ① 嘉永3(1850)年
   ② 従者、新助と二人旅である
   ③ 下関市(当時、赤馬関)
   ④ 石ころ道で歩きにくい
   ⑤ 綿・ごぼう・大根
   ⑥ 秋芳町大字岩永本郷、美祢市伊佐町河原
   ⑦ 午後5時前頃 萩から四郎ヶ原まで約50km



なるほど。説明板の地図を貼ってみました。ふーむ。


松蔭先生、絵堂から四郎ヶ原まで1日で・・・お若い時とはいえ、早歩き過ぎ。


イテテ


(しかも二人旅で・・・新助氏、ガンバ!)


道が悪い箇所もあったのに、さすがです。


さて、街道を進み広谷橋を渡りました。


左側の景色です。看板には、『秋芳洞』・『景清洞』・『サファリランド』・『大正洞』・・・美祢市には、行きたい場所が多いですね。

いよいよ最後の場所である、『木島鉄之進墓』へ。


画像には幾人かのお墓がありますが、1番上の見えにくい場所に木島鉄之進のお墓があります。
リーフレットには“木島吉蔵の次男”とあり、慶応2(1866)年3月に八幡隊(後に鋭武隊・・・えいぶたい)に入隊。四境戦争小倉口の戦い等に参戦。明治2(1869)年、長州藩による諸隊解散命令に不満を持った兵士たちによる『脱隊騒動』に加わり、無念の最期を迎えた。とありました。
幕末の長州藩には有名な『奇兵隊』を含む、数々の隊『諸隊』があり、その中の一つである鋭武隊があり、そこに所属されていたんですね。
てか、前身である『八幡隊』の事は知りませんでしたので、調べてみました。
文久3(1863)年9月に今八幡宮(山口市)神官宅に屯集して神典取調所と称し有志を集め、12月頃には100人余りにもなったそうです。
発音は『やわた』だそうで、12月24日に小郡秋穂(あいお)浦に出張→元治元(1864)2月には、秋穂に転営。
6月に隊士の一部(50名)が上京。
禁門の変後、11月15日五卿の守護として山口→長府へ。
12月17日長府→19日伊佐→萩へ。
慶応元(1865)年3月 小郡へ屯集(定員150名・・・5月には200名に)
慶応2(1866)年4月 第二奇兵隊脱走事件に関連して連座者を出した。
6月からの幕長戦争では芸州口に出戦→10月に小倉口へ。
慶応3(1867)2月21日 集義隊と合併、鋭武隊と改名。
(集義隊は芸州口に出戦)
この小倉口の事を改めて調べてみますと、6月頃に奇兵隊総軍が吉田の陣所を出発とあり、あの坂本龍馬も乙丑丸を率いて長州軍に加わったようです。
翌年の1月23日に講和の和議が成立したというから、思っていたより長く戦われたのですね。
建前は『不名誉な死』に当たるので、他の方よりも離れた場所にありますが、左側の離れた場所にも、『鋭武隊』の隊士のお墓がありました。


こちらの墓石の先は尖っているので、『戦死』(殉死)された方のものなのでしょうか?

これにてウォーキングは終了です。ガイドさん、3時間以上も案内していただき、どうもありがとうございました。


美祢市のガイドさんなのに、華陵(下松市にある山口県立華陵高等学校)のウェアを着てらして、ツボ!


アイタタタ


(ガイドさんは以前、華陵高校で・・・←個人情報を書かないでください!)