今日、山口県を走る聖火ランナーさんが萩でゴール!されることを知ったRieruです★
山口市から岩国市までに設けられた区間は中止・・・そして、広島県と岡山県が緊急事態宣言が発令・・・
悪いニュースばかり報じられているわけですが、GW前に島根県にある玉造温泉街を歩いたことを思い出しましょう。気分が上がります♬.*゚(←現実逃避)
ねこ橋を渡る前に、依ちゃんが訪ねてみたかった!という場所に参りました。
ねこ橋の近くから見ると・・・つまり対岸から見ると、『一畠薬師』と刻まれた石灯篭が見える道路の向こう側にあるお社になります。
湯元はこの辺りにあり、古代から賑わっていたのだとか。
しかし、鎌倉時代に湯元が川の中に埋没してしまい、場所が分からなくなったことがあったそうです。
川床を一所懸命に掘ると、湯元と共に木彫りのお地蔵さん(薬師如来像)が出てきたから驚きです!
そのお地蔵さんを長谷川家が持って帰り、湯薬師堂に祀りました。
現在でも、長谷川一族が管理されているそうです。
一年に一度、旅館の経営者が集まり、温泉街の発展を祈っておられるのだとか。
説明板には、このように書かれていました。
湯薬師堂について
最初の創建は延慶2(1309)年と言われています。
富士名義綱(佐々木義綱)が病に伏していたとき、家臣の綱久が薬師如来に病気平癒を祈ったところ、夢枕に白髪の老人(薬師如来の化身)が現れ「玉作川に洪水で埋まった温泉(霊泉)の湧き出る場所がある。この霊泉を浴びれば病が癒えるだろう」と告げました。さっそく玉作川を掘り探すと、一体の薬師如来像が見つかりそこから温泉(霊泉)が湧き出しました。義綱がその霊泉に浸かると病が平癒したといいます。御堂を建立し薬師如来像を安置したのがはじまりと伝えられています。
現在の御堂は平成9年に新しく建て替えたものです。(宝形造、桟瓦葺、桁行2間、漆間2間、外壁は真壁造、白漆喰仕上げ)
所有・管理 湯之助の宿 長 楽 園
こちらの鐘に纏わる説明板がありました。
海を渡った鐘
この鐘は、大正12(1923)年に作られ、玉造のお堂の軒先に吊るされていました。ところが、終戦前後から隠岐郡西郷町原田地区で消防の半鐘として使われるようになりました。
隠岐に渡った理由は不明です。
近年、祠部に「玉造」の文字があることがわかり、西郷町の皆さまのご好意により、2000年5月に返されました。
ほんと、どのような経緯で隠岐(島後島)に渡ったのでしょうか?戦前戦後の混乱期に誰かが運んだのでしょうが、謎ですね。
横縞灯篭を発見☆
御堂の右側には、お地蔵さんたちがいました。
古そうですね。
その右隣には、背の高い地蔵菩薩が。
右側にある説明板には、このように書かれていました。
地蔵菩薩 建立の趣旨
先の大戦中、玉造の一部の施設では、広島陸軍病院の分院として傷病兵の治癒にあたっていました。
昭和二十年八月六日広島に原爆が投下され、同十日頃から数次にわたり、重症の被爆兵士約二百名が山口線経由の貨物列車で玉造へ移送されてきました。
当時の女子青年団員十数名が、衛生兵の助手として看護にあたりました。
分院の広間に隙間なく寝かされた被爆兵士は、ほとんとが半裸状態で全身焼けただれ、顔かたちも識別できないような方々もあり、極暑のなか手の施しようもないまま 水、水と訴え次々と亡くなられたと伝えます。
遺体は街上の新弥堂で葬儀のうえ、付近の山野で連日にわたり荼毘に付されたと申します。
これらの記録は玉造分院史等にも無く、死亡された方々の氏名、年齢、住所など不明であります。
戦後六十有余年、この度 地域住民として、湯薬師堂の浄域に、地蔵菩薩をお祀り致し、分院で亡くなられた方々のご冥福をお祈り申し上げ、末永く回向致す所存であります。
平成廿三年秋彼岸 地蔵菩薩建立委員会
世話人 新宮承紀子
この説明板を読んで、依ちゃんと顔を見合わせました。
「え!こんなこと全く知らなかった!」・・・です。
山口線を貨物列車で玉造まで・・・亡くなられた後は手厚く葬られたのですね。
被爆兵士並びに看護等を施した方々に想いを馳せながら、湯薬師堂を後にしました。
そして、ねこ橋を渡り、宮橋を臨んだ後に、川沿いにある井戸を発見☆
『湯閼伽(ゆあか)の井戸』という名前が付いているそうです。別名『恋来井戸』。
井戸の上には、ひと袋100円で鯉の餌が置いてありました。
鯉に餌をあげると鯉(恋)が近付くのだとか。
・・・申し訳ないですが、『恋』にこじつけてくる事に疲れてきたのは私だけ?
アイタタタ
(すみません、すみません、すみません!)