山口の神社仏閣★妙見宮鷲頭寺 本堂 荒神社 山頭火句碑編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。




県内限定で先日発売された『やまぐちプレミアム宿泊券』を購入しなかったRieruです★

予め取扱宿泊施設の一覧をチェックしていたのですが、泊まりたい宿の名前が無く・・・


イテテ


(じゃあ別の宿に変えればいいのに!というツッコミが聞こえる〜)


別の宿も魅力的だけど、コロナ禍が収まった後も私が元気に生きているという保証は無いし、行けそうな時に行きたい!と考えている女は、先月末 下松市にある『妙見宮鷲頭寺(じゅとうじ)』に参りました。


二の丸様の供養塔がある『周慶寺』の近くにあります。

お寺ではありますが鳥居があり、『妙見宮』になっていました。


昔は鷲頭山というところの麓にあり、明治12(1879)年に現在地(中町)に移転したそうです。

山門の近くには新しい建物がありました。


数々の像が安置されており、不動明王像もありましたよ。


例の迦楼羅(かるら)ちゃんキラキラ

門には巨大な草履(ぞうり)が!


小さな草履も外にたくさん吊るされていました。


ゆっくり拝見させていただいた後、謹んで参拝。

寺額には『北辰閣』と書かれていました。


あら、天井部分には龍(辰)の絵が!


よく見ると絵馬で、回れ右して見上げて鑑賞するのが正解のようです。


『下松(くだまつ)』という地名の由来(諸説有)にもなった北辰降臨伝説・・・
『大内多々良譜牒』によると、「推古17(609)年周防国都濃郡鷲頭庄、青柳浦の松の木の上に、大星が降って七日七夜、赫々と照り輝いた。異国の太子が来朝するのをあらかじめ守護するため、北辰が降ったのだという。降臨の地を下松浦と名付け、星を祀って妙見北辰尊皇大菩薩と呼んだ。三年後百済国斉明王の第三皇子、琳聖太子が周防国多々良浦(防府市)に来着し、難波の荒陵(あらはか・・・大阪市四天王寺)に行き聖徳太子に謁し、大内を采邑地として与えられ、また多々良の姓を賜った。そののち妙見大菩薩を下松浦から桂木宮に遷し、宮ノ洲山の嶺に上宮・中腹に下宮を祀り、琳聖太子の五世孫 茂村はさらに大内氷上山に妙見を勧請した。」とあります。
また、『妙見社縁起』によると似たような話ですが、もうちょっと年代が古いようです。
ご存知、大内氏の祖は琳聖太子というのは後に大内氏がでっち上げた説ですが、当時の朝鮮との外交を有利にしたいという目的は果たされました。
当時、ハッタリは言ったもの勝ちだったのですね・・・権力者が言い張られば、そうなのか?そうなんだな!となりますもん。しかし後の世で暴かれるとは・・・思わなかったのでしょうね。


イテテ


(それほど琳聖太子の影響力が大きかった・・・山口市にある乗福寺には琳聖太子の供養塔があるそうです)

ちなみに境内にあった説明板には、このように書かれていました。

妙見宮の略縁起

  当山妙見宮は百済(くだら)国 皇子琳聖太子(大内家の大祖)御建立の御社であり本尊妙見菩薩(北辰菩薩)も亦太子御待来の尊像にして、三国(印度、支那、朝鮮)伝来と云い伝う。実に本朝最古の霊像であります。
其の由来は、推古天皇の御代3年9月18日周防国都濃郡鷲頭庄、青柳浦の松の木に大星天降る。時に神童現われ、村の長に向かい「我は北辰(北斗七星)にして、日本国土の美を愛し、天降って国家を擁護せんとする。今から三年後 百済国、皇子琳聖太子来朝す、永く国に留めよ。王法を伝え、治国の道を修む可し。その由を国主に告げ朝廷に奉せよ。」云々
後、聖徳太子に迎えられ、推古天皇御宇5年丁巳春3月2日 百司百官(ひゃくしひゃっかん)を倶にして周防佐波鞠生(まりふ)の浜に着船。其の秋、太子は都濃郡青柳の浦桂木山(宮州山)に宮殿を御建立になり、北辰尊星、即ち御待来の尊像を納め星祭供養を奉修された。これが日本における星祭のはじまりであります。
星霜千有余年を経、其の問幾多の難に遇い、亦大檀那も大内家、毛利家と変わり明治12年12月朔日(ついたち)。大星降臨の古蹟、現在の地 中町に尊像妙見菩薩をはじめ多くの仏像を奉載して遷し祀り、北辰降臨の日、18日を縁日として今日に至ったのであります。

ふむふむ。

境内には『荒神社』がありました。


規模は小さいですが、丁寧に彫られた彫刻に癒されます。


・・・


毛利家とは関係がないので、あしからず。

こちらには有名な亀さんたちがいる池があります。


初めて見た時は、その数の多さに驚きました。
山口県を代表する自由律俳句の俳人 種田山頭火さんも、この亀さんたちを見たことがあるのだとか。
昭和8(1933)年に、光市室積の普賢祭りの帰りに立ち寄ったらしいです。
そんなゆかりの地である場所に、山頭火さんの句碑が平成30(1955)年12月3日に建立されました。


濁れる水の  流れつゝ澄む
山頭火


俳人 山頭火は、昭和8年5月18日、室積の普賢祭りの帰途、下松駅から妙見宮鷲頭寺へ来て、溜池の亀を見て 小郡 其中庵に帰った。


句自体は昭和15(1940)年に愛媛県の松山で詠んだ句です・・・


アイタタタ


(この“溢れる”亀さんたちを描写した句を詠んで欲しかった・・・←山頭火さんに謝れ!てか選句した関係者さんたちにも謝れ!)