山口の神社仏閣★宇部護国神社 維新招魂社(旧社殿跡)石鳥居・石灯篭編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。



先週、宇部市にある『東新川駅』→『小川の蜜カス本舗さん』→『琴芝れんが広場』を巡ったRieruです★

真締川沿いを北上し、ホワイトデーに参った『宗隣寺』を通り過ぎました。

その先に、目的地である『宇部護国神社』があります。


参道入口から境内に桜の木が沢山あることが見えましたが、20m程先に先客が見えたのでコースを外れることにしました。他の人と参拝が被るのが苦手なもので。
靖国型の鳥居に向かわず、左手に見えた石鳥居へ進んでみましょう。


脇参道かな?

神額には『維新招魂社』とあり、建立は明治33(1900)年と刻まれていました。

維新か…慶応元(1865)年5月26日、福原越後をはじめ、禁門の変での戦死者を琴崎八幡宮に祀っていたそうです。


『山口の神社仏閣★琴崎八幡宮 絵馬•階段の狛犬•鳥居編』宇部市にある琴崎八幡宮に、初めて参ったRieruです★『古地図を片手にまちを歩こう』企画で『上宇部』の東コースに参加したのですが、基本、琴崎八幡宮の境内を案内…リンクameblo.jp

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貼ってみただけ…



8月10日には越後の罪を廃棄する通知が出ました。で…ああ、説明板がある!それにはこのように書かれていました。(←セコッ)



由緒  宇部護国神社
  此処は、宇部護国神社(維新招魂社)の旧社殿跡です。江戸時代幕末、禁門の変(元治元(1864)年7月)で戦死された福原藩(領?)21名の御霊をお祀りし、また同年11月禁門の変の責任を取られて自刃された領主 福原越後公を主神としてお祀りしています。

越後公辞世の句

くるしさは絶ゆるわが身の夕煙
空に立つ名は捨てがてにする


  今更ながらも当時を偲ばれるものです。墓石には元治三年ともあります。いかに長州人が元治にこだわりがあったのかと察せられます。社殿は慶応2(1866)年2月に落成し12月4日に初めての祭典が行われました。明治政府は維新の功績を称え、明治10(1877)年2月に社格を官祭に列せられました。例祭は越後公御誕生月の9月4日に催行されていました。御祭神は明治維新以来、日清日露またその後の戦争で戦死された諸霊をお祀りしています。昭和19(1944)年4月15日に現在殿に遷座され、社殿は現社殿の右に『偲勲殿』として建てられて跡ます。此の歴史を振り返ってみますと神域には古松が林立しその梢を渉る颯々の風の音は今も耳もとに聞こえるようです。

    平成26(2014)年2月吉日
宮司  野村好史
奉納 河村酒店

なるほど…社殿跡に碑が建っていますが、両脇後ろには禁門の変の戦死者たちのお墓がありました。


日付は元治元(1864)年の7月18日と19日になっているようです。


また、『大田絵堂の戦い』(美東町の大田の絵堂を主戦地として保守派の萩の政府軍と高杉晋作さんら諸隊との戦い)で奇兵隊と共に戦った膺懲隊(ようちょうたい)の方も名を連ねていらっしゃいました。

近くには、知方隊の鉄砲塚も…てか知方隊?覚えきれないぐらい隊がありますね。


一際目立つ、立派な石灯篭に釘付け!


奉献年は明治2(1869)年3月で、福原家の家紋『カタバミ』が彫られています。

三つ葉のクローバーみたいで可愛いですね。


ん?右側の灯篭には、『明両』?

奉献者は『卯之歳女』…?


そして左側の灯篭には『継照』。そして『辰之歳女』。

女ということは女性ですよね?単純ですが、その歳生まれの女性ということてしょうか?

私なら『寅之歳女』…は、何千人、何万人いることやら!


アイタタタ


(当時の文化です、文化)