昨夜は久しぶりに寒さを感じたので、石油ファンヒーターを付けたRieruです★
…灯油が切れていました。
イテテ
(使い切っていたのなら、もう片付けようか)
ということで月曜から夜ふかしをせずにさっさと就寝した女は、先週山陽小野田市で、思いがけず瓶垣を見付けました。
最終的には『三好邸』の瓶垣を見に来たわけですが、こんな場所もあったのかとテンションが上がりましたよ。
さて。その三好邸の瓶垣に行く前に、『旦(だん)の登り窯』が近くにあることがGoogleマップを見ていて分かり、寄ってみることに。
お〜、これが登り窯!
説明板が設置されており、それにはこのように書かれていました。
旦の登り窯
天保の末年(1540年頃)都濃郡富田の人・甚吉が、旦の給領庄屋 作左衛門宅に寄寓、周辺の畑土をみて、「この土なら焼物がつくれる。」と語ったことから、前原一誠の父 佐世彦七が援助、「登り窯」を開いたのが起源。
前原一誠さんの父 佐世彦七さんが援助されて、登り窯が造られたのは知りませんでした。
説明板、続きます…
甚吉死後、その技法を継ぐ者が出て、明治初年、旦で焼いた擂(す)り鉢などが、北海道の寒気に強いことから開拓民に喜ばれ、旦の製陶業は一時栄えた。
△ 味わい深い登り窯の顔
明治24(1891)年、日本舎密(せいみ)製造株式会社(現 日産化学工業株式会社小野田工場)が硫酸瓶等を製造、その容器を当初ドイツから輸入していたが、旦の焼物に注目、試作発注し生産をはじめた。本市製陶業の成長は、同社の創業に負うところが多く、石炭とならんで陶器はかつて本市の有力な地場産業品であった。
△ 穴を覗いてみると土で埋まっていました
この登り窯は、とんばりと呼ばれる煉瓦造り。大口から煙突までの長さ28.6m、幅7.5m、煙突の高さ12.3mで、製品を焼く十袋の窯と火力の調整を行うふかせ一袋の構成。窯では硫酸瓶や焼酎瓶などを焼き、ふかせでは消し壺や焙烙(ほうろく)などを焼いた。
なお、甚吉窯は三袋の登り窯で、この登り窯の焚口付近にあたるといわれている。
なるほど、こちらで。
この煉瓦のアーチと、中で揮発した釉薬が壁にべっとり付いた感じの様(さま)は、約5年前に訪ねた防府市の多幸窯を思い出します。
イテテ
(もういいよ〜←いろんな意味で)
こちらも瓶垣同様、映える写真が撮影出来るスポットです。
ちょっとグラビアアイドルに…意外と合いそうな雰囲気ですよね。(←え?)
登り窯の上の裏まで見た事がなかったので、今回はじっくり拝見しました。
おおっ、大きな煙突が!
説明板には、煙突の高さは12m以上あると記載されていましたね。
うーん、なんてノスタルジックな
てっぺんから生えている雑草と周りを固める瓶垣が、オリジナル感を出し、さらに煉瓦の劣化具合が渋い味を出して、他では見られない幻想的な景色を醸し出しています。
足元に目をやると、陶器の欠片が混ぜられたセメント?が。
おお〜。
ちなみに登り窯を正面にして右側の建物にも瓶垣がありました。こちらも芸術的でしたが、車が駐車場にあり、撮影を控えました。
なので、登り窯の横穴から向こう側の建物の瓶垣の一部が見えます。
はぁ〜。
こちらは左側の瓶垣。
この硫酸瓶を横倒しにして並行に積んでいくわけですが、間に土を入れたりセメントを挟んだりした垣根は素人が造るのは難しそうです。
てか、1個1個が重そう。
!
こんな失敗作もあるんですね。
こちらは土管…と思っていましたが、底に蓋があります。一体なんの用途があったのでしょうか?