数日前から柴犬ちゃんを預かっていて、一緒に散歩に出かけているRieruです★
柴犬ちゃんが高齢なので、後半のスピードは緩やか…ですが、サクサク歩く私。
イテテ
(動物虐待です)
疲れ果てて夜はよく寝てくれますが、歩くコースを短めにした方が良い?最終的に歩けない!と動いてくれなくなったら抱き抱えて連れ帰るので、ある意味私のトレーニングになっている?とポジティブに考える女は、先月行った県内旅行2日目に萩市にある金谷神社を訪ねました。
もちろん、まだ梅の花が咲いておりませんでした。現在は美しく咲いているのでしょうね♬.*゚
金谷神社は元天満宮なので、何本か梅の木がありました。
そして梅の木より数が多いのが石灯籠です。
回廊と拝殿の間にある4基の石灯籠が気になりました。
結構大きさがあり、近付いてマジマジと見られる方も少なくないかもしれません。
晴れたり曇ったりしたので別日に撮影したような画像が何枚かありますが、全て同じ日に撮影したものです。
えーと…「宝暦」?
宝暦2(1752)年2月25日…萩藩主は毛利重就公、将軍は徳川家重。
ココ、ココ。
なんか可愛い。
明かりが灯ると、どんな表情を見せてくれるのでしょうか?
約6年半のズレがありました。このズレは一体…何かあったのでしょうか?
さぁ、神社を後にし…あっ、贔屓さん!
台座の波のレリーフが良い感じ。
金谷神社のことを書いてきましたが、説明板に書かれていたものを忘れておりました。
金谷天満宮と大木戸
当社は、鎌倉時代の長門守護職 佐々木四郎高綱が大宰府天満宮から勧請したといわれ、享保5(1720)年藩主 毛利吉元の時、現在地に再興されました。
秋の祭礼は萩二大祭の一つで、大名行列、踊り車等の奉納があって賑わいます。
また、ここは城下町の表玄関ともいえる大木戸のあった所です。番所には常時番人を置き、日没には治安維持の為、城下の出入りはさし止められていました。
なるほど、鎌倉時代に大宰府天満宮から勧請されたのですね。なぜ日本海側に?と思っておりました。
そして日没後は城下町への往来はストップされていたのですね。
…贔屓さんは18世紀〜末頃からいらっしゃるのでしょうか?
また、先程の説明板よりも新しい説明板があり、重複する箇所はありますが、このように書かれておりました。
大木戸跡・金谷神社
金谷神社の大木戸が設けられたのは元文年間(1736〜1740)で、当時作成の城下町絵図にもはっきりと描かれている。金谷神社は金谷天満宮と呼ばれ、城下の入口に位置していた。当社は鎌倉時代の文治2(1186)年 長門国守護 佐々木四郎高綱が筑前大宰府天満宮から勧請し総鎮社として現在地の東側、古天神というところに創建したと伝えられている。戦国時代には、毛利氏は当社を「長州第三天満宮」と称して庇護した。江戸時代になって享保5(1720)年、五代藩主 毛利吉元が現在地に壮大な社を建設した。
なるほど、なるほど。治安維持の為に…しかし、当時の城下町絵図を見た事があるかも?ですが、全然そんな大木戸なんて意識して見た事がありませんでした。
いつか機会があったら探してみよう!
てか、「長州第三天満宮」って?第一は防府(松崎)天満宮ですよね。え?第二?岩国市周東町にある高森天満宮?それとも光市光井にある冠天満宮?
あっ、贔屓さん、贔屓さん。
…背に乗せてるというより、ぶっ刺さってる!
イテテ
(それでも耐えている姿がいじらしい←え?)
しっかり差し込んでおかないと、すがったり、登ったりするお子さまがいらっしゃるようです。
…酔っ払ったら、大人もやるかもよ?
アイタタタ
(お触り禁止)