山口の神社仏閣★大寧寺 本堂と梵鐘編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。



昔の“呪(まじな)い”が書かれていた某書に、『嫉妬深きを治す方』が載っていて、その方法に驚いたRieruです★

“鶯(うぐいす)を煮(た)いて食わせるとよい。奇妙に妬みを忘れる。”と、書いてありました。

…根拠は?


イテテ


(美しく鳴く鳥というのがヒントなのだろうか?)


古くから存在する日本の迷信の中には現代でもわりと多く、つい救急車のサイレンが聞こえると親指を他の指で隠してしまう女は、先月長門市にある大寧寺(たいねいじ)を訪ねました。

参道を進んだ先には階段…の手間に池のようなものがありました。


この池には、鯉がいるのかな〜?


おおっ、イタイタ!


冬場は餌となるものが少ないからか、私たちの元へまっしぐら!

5〜6匹だと可愛いですが、それ以上になると少々怖いです。

   清らかな池キラキラ

そして餌を持っていなくて申し訳ない気持ちになります…

なんてことはない手水鉢ですが、赤い実を付けたマンリョウがあるだけで美しく感じます。


…ウチのマンリョウは全て鳥に食べ尽くされましたが。


イテテ


(いいよ、また晩秋に実を付けてくれるでしょうから…)


知り合いの方にその話をすると、「ウチのも全部食べられたんよ。今年は餌になるものが少なかったんかねぇ?」と言っていました。
庭にマンリョウがあるのは初めての事なので私には分かりませんが、実が枯れるまで残っているものなのですかね?

  境内には少し雪が。

さて。謹んで参拝致しましょう。


本堂の正面向かって左側には石製の説明板かあり、このように刻まれていました。


大寧寺

   大寧寺は、永享の頃(1429〜1440年)長門守護代 鷲頭弘忠により能登総持寺の石屋眞梁禅師を請じて開山した古刹で、天文20(1551)年の大内義隆の自刃にともなう焼失と寛永17(1640)年野火による二度の火災に見舞われて現在に至っている。


   現存する本堂は、文政12(1829)年 四十五世泰成の代に境内諸堂の一つである衆寮をもとにして建て替え、向拝や後陣を増設したものである。毛利庇護の『大津深川大寧寺講堂御脳所並自作事所差国』によると、境内伽藍は一町四方余に山門、本堂、開山堂、庫裡、客寮、小庫裡をはじめ、僧堂衆寮東司など参禅のための講堂が完備し、西国九州を統括した僧の威容をしのばせるものがある。


   このように本堂は、もと衆寮という曹洞宗の道場の一つをあてたもので珍しく規模も県下仏教寺院中最大で建築史上希少価値がある。


大寧寺境内と題された説明板には、境内自体が山口県指定史跡ということが書かれていました。


   大寧寺は、応永17(1410)年守護代 鷲頭弘忠(わしのうずひろたか)が創建したと伝えられる。

ほぉ〜、鷲頭弘忠氏…大寧寺の開基になっていますね。

瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺


鷲頭氏も大内氏も同じ家紋なので便利です。

本堂で気になったのはこちらの梵鐘で、画像よりは少し大きめに見えました。こちらも説明板があり、このように書かれています。


長門市指定文化財 工芸品
大寧寺の梵鐘

  総高97、3cmで、中型の梵鐘であるが、製作の時代が古く、工芸品としても貴重である。銘文によると、この鐘は筑前州垣崎庄葦谷津(福岡県遠賀郡芦屋町)にあった長福寺の鐘として、室町前期の応永3(1396)年に芦屋の鋳物師によって鋳造されたことがわかる。
   芦屋津は鎌倉時代から江戸時代初頭にかけて鋳物師の里として著名であり、この地の領主 麻生氏は大内氏に属し、『大内殿有名衆』の筆頭に名を列ねており、麻生氏の分骨墓が数基大寧寺にあることや、遠賀郡には大寧寺八代足翁永満和尚が開山した竜昌寺が大寧寺の末寺としてあることなど、大寧寺は遠賀郡や麻生氏と因縁が深いことから、この鐘がもたらされたものと推察される。

ほぉ〜麻生氏…菩提寺は福岡県の聖福寺で、麻生家のお墓の横には小早川隆景(毛利元就の三男)の供養塔があるそうです。
県内だけではなく、もっと広い視野を持って旅に行くと楽しいでしょうね。うーん…『友人を神社仏閣に連れて行く方』という呪(まじな)いは無いものかしら?

てか、緊急事態宣言延長です。


アイタタタ


(他人に依存しすぎるのは良くない…そろそろひとり旅を検討してください)