先月、山口市で美しい白鳥を見たRieruです★
イテテ
(そして岩国のお堀にいる2羽の白鳥は“岩ちゃん”と“国ちゃん”になるわけですね?←どっちがどっちなのかテキトー)
次回山口市を訪ねた時にもいて欲しいと願う女は、次の目的地である『山口市歴史民俗資料館』に到着しました。
PM 1:05
久しぶりに訪ねました。(観覧料110円)
現在こちらでは、『雲谷庵展 -アトリエからサロンへ-』が開催されているようです。
雲谷庵は大内氏が雪舟に、毛利氏が雲谷等顔に与えた水墨画創作のアトリエです。
等顔以降の雲谷庵は、雲谷宗家が代々継承してきたことにより、雲谷派にとってシンボリックな存在になりますが、時代の流れとともにその姿を消してしまいました。
このことを嘆いた近藤清石を始めとする有志は、明治17(1884)年に跡地を買い取り、雲谷庵を再建します。
ここまでの雲谷庵の歴史はよく知られていますが、その後の歴史はあまり知られていません。有志による雲谷庵の再建は、アトリエを残すことだけが目的だったのでしょうか。
本企画展では、再建後の雲谷庵で開催されていた短歌会に注目します。雲谷庵で詠まれた短歌から、アトリエからサロンへと変容した雲谷庵について考えます。
…と書かれていました。あの雲谷庵は再建後に短歌会等が催されていたのですね。
この展示会は前期で、後期は明後日の11月10日(火)から始まり、12月6日(日)まであるようです。
展示会は基本、カメラ等の撮影はOKですが、NGの作品もあるので、注意深くプレートを確認しながら撮影させていただきました。
撮影OKな作品は、主に資料館所蔵のものです。
下の図は、雪舟の弟子である秋月等観(しゅうげつとうかん)によるものです。
『山水図』
ん?こちらの絵は、どこかで(似たような作品を?)観たことがあります。
『寒山拾得図(かんざんじっとくず)』
説明プレートによるとこの2人の人物は『寒山』と『拾得』といい、水墨画ではよく選ばれる画題の一つだそうです。なるほど、それで…(作者は分からず)
2人は中国の寒山寺(臨済宗)の僧侶で、一般的に寒山が巻物、拾得が箒(ほうき)を持って描かれるのだとか。
こちらの屏風がお気に入り
『枯木に叭々鳥図屏風』
こちらも作者は不明ですが、初期の雲谷派の工房作品ではないかと考えられているようです。
画題の『叭々鳥(ははちょう)』とは、『ハッカチョウ(八哥鳥)』という鳥のことをいい、日本には江戸時代に輸入されたきたとされています。
可愛い…伊藤若冲も『鹿苑寺大書院障壁画』の1枚に、この鳥を描いているようです。
このように、山口には水墨画創作をのアトリエがあったのですね、で、時代とともに消えていった…それを、この近藤清石(きよし)さんらが再建した…『近藤清石の足跡』と題されたコラムには、このように書かれていました。
近藤清石(天保4(1833)〜大正5(1916)年)は、近代山口の歴史を語る上で決して欠くことのできない存在です。彼の足跡は、今日の学問における基盤となっているものもあります。具体的に例を挙げれば、『大内氏実録』は大内氏研究の基礎であり、それを執筆するために渉猟(しょうりょう)した史料は全20巻から成る『大内氏実録土代(どだい)』としてまとめられました。
近藤は、文化に通じる人物で知られます。展示史料はそのほんの一部です。歴史文化に対する厳正な姿勢には、私たちも見習うべきところがあります。
そんな近藤が参加した雲谷庵短歌会には、彼による強く頼もしいリードがあったに違いありません。
アイタタタ
(『十朋亭』にいらっしゃいます☆)