ここ毎日、ニュースでBTSを見ない日は無いRieruです★
娘Bが東京のコンサート(昨年)に駆けつけるほどのファンなので、連日の報道の話をすると喜ぶだろうと思って話題を振りました。
…意外と冷静でした。
イテテ
(ファン同士で散々盛り上がったのでは?と思います)
結局関東への修学旅行が無くなって旅費を返され、その全額を彼女に渡した(いつか修学旅行のかわりに友人らと旅行に行く費用)女は、先週山口市内を散策しました。
いくつかの『宿題』を抱えながら歩いた先は、『八坂神社』でした。
大きな鳥居が迎えてくれます。
広い境内ですが、元々こちらは15世紀中頃に大内教弘(13代)がさんが築いたと言われる『築山館跡』だそうです。…と、説明板に書かれていました。
その上には平面図がありましたが、実際にはもっと広かったのでは?と思います。
境内には、このような歌碑がありました。
池はうみ こずゑは夏の み山かな
宗祇
文明12(1480)年6月上旬に大内政弘(14代)さんに山口に招かれ、築山館の庭園のさまを詠んだ句だそうです。
約3ヶ月間、神光寺(現 神福寺)を宿にしていた頃に詠まれたのだとか。この時同じ連歌師の宗観(後の宗長)と宗作も一緒に山口に参られました。
句は『老葉集』に収められ、旅行の様子は『築紫道記』に書かれているそうなので、いつか読んでみたいですが、ある書籍にはこのような抜粋がありました。
“既に打出るおり、陶尾張守守護・内藤孫七護道、もろともにさぶらひを添ふる、いとど行末たのもしくなむ、かくて過行程に民屋一むら有、津の市といふ、左に河ながれ海つらはやて入りて物さびし、かつまたの池もかくこそはと、堤崩れて危きわたりなれば、うちおろし湊川を越行程に門司下総守能秀跡より立はやめ言葉をかはす、折しも空かき曇り時雨めきて打そそぎ侍るあひだ、賤屋の内に駒引きかくし、かみしもの人家々に宿り侍る、程もなく降過れば打つれつつ、此道の物語互にして、遙に過行けば、けはしからぬ程の道の辺りに、小松むら立て、手向の神にやと、大なる石に木綿かけたる有、ここなん周防長門の境といへり”
ほほう…(←よく分かっていない)
9月6日に山口を発ち、大内支配下の地域を護衛されながら、山口→小郡→山中→舟木→赤馬関→門司→若松→大宰府→博多→宗像→芦屋→赤馬関→大領→山口へ10月12日に戻るという36日間の旅を楽しまれたようです。
この頃宗祇は60歳で、翌年の4月上旬に京都に向かって帰られました。
その後、延徳元(1489)年5月8日に再び山口を訪れて、殿中で9回も連歌会を催され、9月17日に帰京されています。
大内政弘さんとはかなり深い繋がりがあったのですね。政弘さん自身も『捨塵和歌集』を書か(詠ま)れているし、政弘さんの意向によって宗祇が編んだ準勅選連歌集『新撰莵玖波集』もあります。共編者の猪苗代兼載がほぼ完成した連歌集を持って山口を訪れ、法楽和歌を収めた後に赤馬関にある長門住吉社に奉納したのだとか。
そんな兼載さんは政弘さんの最期を看取り…すみません、話が随分逸れました。
そして揮毫は当時の京都大学名誉教授であった、吉浪義則博士のものだとか。
築山神社横にひっそりと建つ句碑ですが、よく調べてみたると興味深い対象であることがわかりました。さらに調べていくと、政弘さん以後の大内氏の武将たちの中には、かなり熱心に連歌を嗜む者も多く存在したそうです。
中世武士の教養の一つ…しかも必須だったようで、大内氏滅亡後の毛利氏の時代にも引き継がれていきました。
例の道場門前にあった商家 安部家にあった『安部家文書』の中には、連歌や俳諧なども収められているようです。
後日旅を振り返ってみて、このような繋がりを見出すのは楽しいことです。
…それ、『コジツケ』ね。
イテテ
(キィー!)
肝心の築山神社ですが、お隣の八坂神社(本殿は国指定重要文化財)と比べると少々傷んでいる様子…御祭神は大内義隆公(16代)になります。
この神社の正確な創建は不明ですが、元々大内義隆公を祀る宝現霊社と氷上山興隆寺の境内に勧請された東照宮があり、明治3(1870)年に現在地に遷座し合祀されたのだそうです。
なので、総本社は日光東照宮で、相殿の御祭神は徳川家康さん☆
そして配祀の御祭神は、義隆公の嫡子である大内義尊公(まだ幼子だった…)や大内氏諸公卿諸士28人…多っ!(←コラ!)
大内滅亡時に殉じた配下が28人(代表?)になるようです。
私がもし宮大工さんなら、直してあげたいぐらいです。
(だから、『宮大工さんなら』って!)