山口の神社仏閣★斉宮神社 参道 由来編 | もしかして山口県在住? こじらせ ( 中年 ) 女のアイタタタ…な ブログ ☆

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山口県民になって数年…
日々のエピソードや感じたコトをこじらせながら綴っていきたいと思います。




何度か岩国市にある周防高森駅周辺を歩いた事があるRieruです★


行く度に新しい発見があって面白いのですキラキラ


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斉宮神社(いつきのみやじんじゃ)に向かう参道で見付けた、干支シリーズの(多分)酒瓶が並んでいる場所がありました。

…うおーい、『寅』がいないぞう!


イテテ


(そこの寅年の女性、静かにしてください)


斉宮神社には、まず狛犬さんに挨拶をしてから進まないといけないようです。
それを確かめに岩徳線を越えましょう。


参道に線路が横切ってるなんて、山口県内ではここだけ?



相津踏切に、下半身が無い…大黒さまが!

ちょっと驚きましたが、右見て左見て、もう一度右見て、踏切を渡りましょう。


…歩行者も、そんなことをしないといけなかったっけ?

国道2号線には信号機が無い横断歩道がありましたので、車が通らないのを確認して渡りました。

ふわっ、やっと神社に到着☆


立派な石灯籠と、石鳥居が建っています。


文字が判別出来なくなってる…

石鳥居をくぐってすぐ左側には、由緒が書かれた看板と、大きな石がありました。


由緒

  創建  大同2(807)年春
  神社名  斎宮(いつきのみや)大明神(1903年まで)
  祭神  倭姫命
  神紋  十六葉菊花
  宝物  木彫随神立像、神鏡、銅製鰐口、木彫狛犬貮(2)頭

伝誦によれば垂仁(すいにん…第11代)天皇、皇女 倭姫命、天照大神の神意に従い、八咫鏡、天叢雲剣を奉じて、伊賀、丹波、近江、美濃、等各地を転々と遷幸され遂に西暦前4年即ち垂仁25年春 現在の地 伊勢五十鈴川の辺りに、永久に御鎮座し給う、これ伊勢神宮の創始なり。
因って倭命初代の斎宮となり給う。砌周防国熊毛郡相津、中村、末法の三村を食地となす。
その後も歴代斎宮の御領地と成る也。降りて大同2(807)年春 時の斎宮は、初代斎王の倭姫命の御旧蹟を慕い自ら御下向相成り。相津の宮地が丘に神殿を建立し倭姫命を祭神とし斎宮大明神と号し、相津、中村、末法、三村の産土神として御鎮座なし給う。
是れ斎宮神社創建の由来なり。
『社伝云』創建以来 西暦1200年頃までは大社の構えで、厳かなる神社なりて斎宮付属の公家衆の御下向有りて公文所もありしが度々の天下大乱により次第に衰微し跡地の畠となる。のち農民家宅を構えるも祟りありて永住ならずと申し伝えあり。只今公文所付近の地名を勅使畑と称え、土地台帳に小字名を残す。又 昭和20年頃までは勅使畑に笛面塚あり。往昔公家衆下向の節 能舞に使用せる笛と面を供養なしたる塚なりと申し伝えあり。
昭和58年 斎宮神社 社務所


へぇ〜、そんな由来があったとは。てか看板の近くにあったこの石は、一体何なのでしょうか?


そして倭姫命とは、一体…後日調べてみると、『やまとひめのみこと』と読み、垂仁天皇の第4皇女ということが分かりました。
古事記では『倭比売命』と表記され、伊勢神宮の創祀に深く関わった方なのですね。

伊勢神宮   伊勢は今日も美しい


それで拝殿の戸に、伊勢神宮のポスターが貼られていたわけですか。

周りは田畑が広がります。


島田川沿い辺りから拝殿まで、ずーっと周りは広い境内だったのでしょうか?

昔は大社の構え…ど〜しても想像できません。


石鳥居前に建っていた石灯籠と同じく、拝殿前の石灯篭も立派です。

何度か建て直されてきたであろう、拝殿。


由緒に書かれていたように、神紋が十六葉菊花になっています。


狛犬さんの台座にも刻まれていましたよね。


(皇室)は咲く咲く(徳川家)は枯れる

と、幕末は歌われたりしたそうです。菊といえば仏花のイメージが強いのですが、枯れにくいという理由から、ウチでは普通に鑑賞用として活け(投げ入れ)ておりますよ。

てか、『仏花=ダサい』という前提で捉えてません?



アイタタタ



(仏花には見えないオシャレな種類もあります←ほら〜)