墓所を通り過ぎると、背中のリュックサックを下ろして中の海水を捨てながら歩いた。
貝殻やシーグラスの落ちる音がしたが、暗いし拾う気力も無い。
港に着くまで、どこか民家を訪ねて電話を借りようと考えていたが、私の思い過ごしか玄関はメインストリートに向かって建っていないように見えた。
小道に入ってわざわざ玄関にまわるのは、ちょっと図々しい気がする。
こんなに暗くに、しかも全身ずぶ濡れの女が玄関を開けてヌッと現れたとしたら悲鳴を上げられるかもしれない。
やっぱりこんな時間に大迷惑だよな。
電話は諦めようか。
いや、他の人に迷惑をかけない、別の方法があるかもしれない。
ふと右手に見える漁港に目をやると、長い竿で釣りをしている人が見えた。
漁港は街灯が煌々と点いていて、明るかった。
ちょうど何かが釣れた様子だったので、邪魔にならぬよう、そのまま素通りして港に向かった。
ぐちょん、ペタン、ぐちょん、ペタン・・・
濡れた靴を履いて歩くと、こんな近所迷惑になるような音を響かせてしまうのか。
なんて思っていると、牛島公民館の室内灯が付いているのに気が付いた。
よく見ると、2階も明るい。
何かサークルか、教室でも行われているのか?
ちょうど良かった。
もしそうなら、携帯電話を借りよう。
家に連絡出来るかもしれないと思った矢先、公民館の入口の左側に公衆電話があるのに気付いた。
なんだ、ここでかければ良いじゃないか。
とりあえず塩っぽい顔と手を洗いたい。
公民館の入り口を見ると、緩く紐がかけられていた。
そしてガラス越しに下足箱を見ると靴は一足も無く、緑色のスリッパがキレイに並べられていた。
どういうことだろうか。
誰もいない・・・のに、電気が付いている。
外から紐がかかっているけど、鍵はかかっていない。
「 すみませ~ん・・・ 」
控え目な声で、誰もいない玄関に向かって言った。
返答はもちろん無い。
眼鏡をしてないので、字までは見えなかったが、玄関マットの上に何か置いてあって貼り紙がある。
もう一度声をかけ、紐を解き、ドアを開けて中に入った。
『 娘さん
これを使ってください 』
貼り紙には黒のマジックでこう書かれ、銀色の大きなビニールの包みと、パイプ椅子の上にポットとコーヒーセットが丸いお盆の上に置かれていた。
これはもしかして、もしかしなくても私の為?
包みを押してみるとフニャフニャして柔らかいし、この大きさからして布団か毛布のようだった。
とりあえず飲み物と寝床はある。
しかも包みは2つ。
観光課の相葉さんが、牛島の方にも連絡をしてくれていて、牛島の方が親切に用意してくださったのだろう。
しかし、娘さんって・・・
この歳になって自分のことを ‘’ 娘さん ‘’ と表現されたのは、正直嬉しかったが、同時にくすぐったかった。
‘’ 遭難者 ‘’ とか ‘’ 旅人 ‘’ じゃあ、しっくりこないか。
喉がカラカラ。
ご好意に甘えてコーヒーを・・・と思ったけどあまり好きではないので、クリープと砂糖を湯に溶かしたものをいただこう。
猫舌なので今作っておき、後でゆっくり飲もうと手早くそれを作った。
固く結んだ靴紐を解き、靴と白い靴下を脱いだ。
海水で濡れている裸足のまま、リュックサックをタイル張りの廊下に起き、お金の入ったリネンの小さい巾着を取り出す。
玄関すぐの御手洗のドアを開けて中に入り、そこの洗面所の台の上に巾着を置く。
蛇口を捻って顔と手を洗うと巾着の中身を慎重に取り出し、丁寧に洗い出した。
千円札2枚と小銭が数10枚。
お札は破れないように台に干し、小銭は1枚1枚並べた。
顔と手はびしょ濡れのまま、10円玉を7枚手にして裸足のまま外の公衆電話に向かった。
濡れた手と10円玉を裾で拭うと、幾分かは乾いた。
裾も濡れてはいたが、少しはマシか。
公衆電話の硬貨投入口に10円玉を1枚入れるとプッシュ式のボタンを静かに押した。
数コール後、次女が電話に出た。
今 光市の牛島という所にいて、最終の船に乗り遅れたので今夜は帰れないこと、スマホを山中で無くして連絡が取れないが公衆電話から電話をしていることを話すと
「 もう、バカじゃないん!
うちの晩御飯はどうするん!」
と、彼女は私に向かって怒鳴った。
・・・ごもっとも。
こんなバカな母親は、探してもそういないだろう。
冷蔵庫に食材がいろいろあるから、姉さんと2人で工夫し協力して父さんが帰宅する前に何か作りなさい・・・と頼んで受話器を置いた。
連絡が取れて安心出来たのと怒鳴られたので、どっと疲れが出た。
頭領にも一報入れようかと思ったが、番号を覚えていなかった。
玄関に戻ると、少しぬるくなったクリープと砂糖を溶かした飲み物を飲み干し、再び同じものを作る。
この飲み物と明るい場所を提供されなかったら私は今、何をしていたのだろうか。
外の公衆トイレ横の水道で身の回りの物を洗い、家に電話をかけた後は港に1人、身を震わせて座り込んでいただろう。
玄関に置いてあった靴を裏返して靴下とリュックの中身の物を全て水道水で洗い流し、洗面台に干す。
当然、海水に濡れてリュックの中で揉まれた牛島のリーフレットは無惨な姿になっていた。
濡らして汚した廊下と足の裏を洗面所の下にかけてあった雑巾で拭き、寝床を探すことにした。
明日は仕事。
しっかり睡眠を取らないと、きっと倒れてしまう。
この公民館の明るさに、私はすっかり元気を貰っていた。
この電気を灯しておいてくれた人に、お礼を言いたい。