自分と他者との境界線は2本ある。
ということを教わりました。
私は少し前、いえ、今もですが、見た目の美醜にとても囚われていました。流行病の前からずっとマスクを着けて、人と目を合わせず生活をしていました。
たとえ化粧で身なりを整えても、すれ違うあの人の様な美しさを生まれ持っていたら、私に見た目に関して暴言を吐いてきた誕生日が同じあの子の様に可憐であったら、ずっと叶わないことを、他者と自分をぐちゃぐちゃにして呪いのように考えていました。
そして最近、その教わった言葉を私なりに咀嚼して考えてみました。
結論から言うと、その2本は自分の世界と他者の世界を離してくれていると考えました。
私はかなりファンタジー思考なのもありますが、地面に足を踏み締めてその1歩、1歩から自分の世界がフワリと広がってくることを想像しました。
優しくなびく草原には白い花が咲いていて輝いている。どこの国でもなんでもないところ。私はその空間にただ存在する。
そこには基準や美学なんて無い。私しかいないから。
なんだかそう考えると、まぁいっか。みたいな気持ちになりました。比べる対象がそもそも存在しない。
だって私しかいないんだもん!
自然に足取りも軽やかになりました。
すると颯爽と駅に向かう人々を見ると、その人達にも私には見えない空間がその足先から広がっているように見えました。私は楽しく思いました。
みんな違う世界にたった1人在る。それだけだったんだなあと。
それでも、自分だけの世界に閉じこもり過ぎるのはあんまり好きではないのです。私は、すれ違う人のカバンについてるガチャガチャのハムのストラップを見て、社会は疲れるけどちょっとでも安らぎになれば!とお家で付けてきたのかなと想うと愛おしくなります。キティちゃんの顔が大量に着いたマフラーを見て、可愛いなあ、それを可愛いと思うのもまた可愛いなあ。そう思います。
あっあの人のカバンにもキティちゃんがいる!みんな結構自分の世界を丁寧に楽しんでいると私は感じました。それは私が気付くもっと前から。
そうやって人と人との境界線の1本と1本は、触れつつあるのではないだろうか。まあまあ人がいる道でつまずいてそのまま何も無かったかのように早歩きをする人を見て私はまた境界線に近づいていく。
今でもたまに勝手にこんがらがらせてしまうこともある。
寒空の下、駐輪場にて白い猫が前を通った。
追いかけると元から何も無かったみたいに、静かな道に出た。わたしは自転車を漕いだ。手はかじかむ。しばらくして玄関に着くとバサリと鳥の音。止まってすぐ飛ぶ。生き物と一緒に帰ったみたいで楽しかった。嬉しかった。
そうやって私は私の境界を育てていくつもりだ。