通夜の前、母と私と姉とで父の湯灌を行った。


亡くなる前の日、
父は珍しくお風呂に入らなかった。

夜遅くに帰ってきて、自室でスーツを脱ぐ前に姉の部屋に行き、受験勉強をする姉にお土産のジュースを渡すけど「今はいい」と断られ、そのあと夕飯を食べながら晩酌して、母にお風呂を勧められてもいつまでも母の側を離れないでいたらしい。

そのとき父は母に「俺、鬱なのかなぁ」と、冗談を言うように軽く言ったという。


その時の母の返答は、母が1番、間違ったことを言ってしまったのではないかと気にしているから言わないでおく。(私からしてみれば、まぁ鬱病で本当に思い悩んでいる人にとっては望まない返答かなと思うけど、普通に生きてたら普通の人はそう言っちゃうよねっていうような、ごく在り来りな一言)

姉もジュースを飲まなかった事を後悔しているけど
きっと思春期の女の子ってそんなものだよね。
思春期って父親に対してどんな感じになるのか分からないけど、たぶんそうだよね。

お父さんもちょっと寂しい気持ちにはなったかもしれないけど、別に気にしてないよね。



それに何度でもやり直せるようにと予備のベルトまで用意して、あんな強い意志を持って死んだ人。

私自身も眠いからって書くのをやめてしまった手紙をあの時寝ずに書いていれば…と、それなりに後悔があるけど
手紙を書いたところで、その場でジュースを飲んだところで、それでもやっぱりきっと死んでた。


だけど、なんか誰よりも早く寝て、
ただ一人、生前最後の父と顔を合わせることが出来ずに、朝、母の悲鳴で目覚めるまでの間にただの一度も起きずバカみたいに寝続けて、夢まで見ていた自分が気持ち悪くて仕方がない。
今、その時の自分の寝顔を想像してみても
普通にキモイしムカつく。



でも、父に頭を撫でられたような気がする。

分かんないけど。




湯灌の時は、みんなで何を話していたかな。

ただ父が凄く気持ち良さそうで、
私達も泣いてしまっているけど流れる時間は穏やかで、
あの人たちを〝おくりびと〟と、呼ぶのかな。
その人たちも何も言わずに作業しながら私たちと一緒に鼻をすすって泣いてくれていた。




父は、本当に穏やかな人だった。
声を荒らげたことなど私の知る限り一度もない。
いつも微笑んで見守ってくれているような、そんな人。



だからか色んな人に慕われていたようで、

それに仕事もしていたし、


通夜は500人近くが参列し、とにかく人が溢れて割りと大きな会場だったのにも関わらず座れない人も沢山居て、
お坊さんも「こんなに長いお経は久しぶりでした」と言っていたほど長い長い通夜だった。



私は漏れそうな声を必死に押し殺し、
歯を食いしばって俯きながらも何とか参列者にその都度礼をするものの、
とにかく涙が止めどない。

少し離れたところに向かい合う形で私の正面に座っていたあまりよく知らない親戚のおばさんが、数年後に「ぐっとこう拳を握りしめて、肩を震わせて、こっちからも見えるくらいの大粒の涙を流していたのが忘れられないわ」と、言うくらい私はボロボロ泣いた。


同級生達が友達の姿を見付け、手を振り合っている姿もよく覚えている。(まだ小学生で、その上あくまで同級生でしかないから仕方ないんだけどね。当時はなんだか悲しかった)



通夜が終わり、
忌中祓いの挨拶回りは私と姉で。

お母さん、お父さんの傍を離れたくないからあんたたちが行ってきて!と、母に子供のように言われた。

そこで色んな人に抱き締められた。
みんな泣いてくれていたけど、この人たちには「心不全で…朝、トイレから出たところそのまま…」ということになっている。

色々と声を掛けてもらったけど
〝お母さん支えてあげてね〟が、一番印象深い。



そんな参列者たちも皆帰り、
私たちが父の傍に居ると、父の同僚が走ってきて、私たちには目もくれずに一目散に父の棺にしがみつき
声をあげてワンワン泣いた。

大人の男の人がこんなに声をあげて泣く姿を見るのは後にも先にもこの時だけ。


この人、前日父と一緒に仕事をしていたんですって。

何だかよく覚えていないけど、確か二人で取引先にお詫びをしに行っていたか何かで
とにかく、そこで取引相手にかなり長いこと、かなり酷い言葉で延々と罵られ続けたとのこと。

その言葉が何だったのかは話してくれなかったし
聞ける雰囲気でもなかったけど、その人ですらかなり参ったのに、その人よりもかなり酷いことをうちの父は言われたらしい。


もしかしたら土下座とかさせられたかな。

私たち家族のことを言われたかな。

考えたくもないようなことを考えてしまっては、打ちひしがれる父の姿が頭に浮かぶ。



その人は「もし裁判を起こすなら僕話しますから」と、私たち残された家族にとって心強い存在となってくれた。


それが数ヶ月後、
裁判を起こす起こさない以前に、ただ真実を知りたくて母がその人に電話したところ「僕にも仕事がありますから」って、冷たく突き放したんだから笑っちゃうよ。

会社って怖いね。

社会って恐ろしいね。

人間っておぞましいね。



でも、あの時のあの人の涙は本物だったと思う。

確かにあの人は父と一緒に悔しい思いをしたんだろうし、あの人も父と同じように暗い気持ちで家路に着いたんだろう。
だから父の死が誰よりも苦しくて、父の死の真実を知っている唯一の存在として責任を感じ、その時は本気であんな事を口走ってしまったけど
冷静に考えてみれば生きてる俺にはまだ仕事があった。生きてく俺は会社を敵に回すわけにはいかない。と、いったところだろう。


じゃあ仕方ないよね。

って、頷かなきゃやるせなくてやってらんない。


小学生の私はただただ無力。
私の中にあったのはその事実のみ。



火葬炉から出てきた父を見て
母は「あぁ…」と、声を漏らした。

私が初めて見た人間の骨。

あんなに大きかった父。

こんなにも小さな骨壷に入っちゃうんだねって、なんかすごい切なかった。