【(その1)からの続き】
繰返すが、英語圏では一般に誰もが誰に対しても気軽にyouを使用して何の支障もない。いや、一般的に使える二単代はyou以外にはないのである。youは、空気や水のように、使うという意識すらなく自然に口をついて出てくる言葉である。実際には高位の者に対する敬称や下位の者を見下げる侮蔑語等をyouに補って使う用法はふんだんにあるにせよ、youが自由に使えることに変わりはない。但し、これは英語のyouだけの特質ではなく他の多くの言語にも見られると思われる特徴であり、私は英語のyouだけを模範としているわけではない。
㈢
その微妙な差別的ニュアンスを持つさまざまな二単代の中で、比較的その差別性が少ないと思われ、標準的二単代視されているのが「あなた」である。この「あなた」は普通語としても丁寧語としても一応は通用する。そして、公的に使われている二単代はほとんどもっぱら「あなた」だけで、他にはないといえる。古語としての「あなた」は別の意味を持つ語であったが、これが現今の二単代として一般化しているのは精々この一世紀来のことにすぎない。
ところが、公的性格を持つものとして代表格扱いされている「あなた」ではあるが、これが現実に名実ともに代表的な日本語の二単代として申し分なく機能しているかといえば、それは怪しい。
公的レベルでは、他に差別色の少ない二単代がないために、「あなた」が多く使われているが、その場合でさえしばしば生活感覚からはずれ、不自然な他人行儀、現実離れした形式本位のそらぞらしさを伴う。
一般的に、私的レベルでは、日常の家庭生活や社会生活において、男女を問わず「あなた」は子が親に、部下が上司にというように目上の者に対しては通常使われない。使ってはならないという規則はないが、実際には不文律であるかのようにまず使えない。何故か。この何故かは極めて心理的な問題であるだけに、その答えは人によってまちまちであろうが、推測するに、通常「あなた」は丁寧、平等、無差別といった標準性が比較的強いだけに却って対等性のニュアンスが強調され、目上尊重を期待する者は目下の者からこの対等性の強い言葉を使われると却って無礼、生意気、といった感覚で受け取るからであろうか。さらに「あなた」には日本語にはある女性語の温和なニュアンスが伴い、それがその使用に何らかの影響を与えているようにも思われる。
「あなた」の使用頻度は男女間でかなりの差がある。男の場合、日常個人レベルの「おれ」「おまえ」の間柄ともなれば「あなた」が入り込む余地は少ない。又、男が女に「あなた」を使うことも少ない。これに対し、女性は女同志でも、女から男に対しても、「あなた」は頻繁に使っていて、「あなた」は女性向きの言葉である性格が強いようである。少し細かく見れば、「あなた」の使用範囲は更に狭くなる。例えば、都市と農山漁村、大人と子供、と分けてみれば「あなた」の使用頻度は後者において一段と少なくなる。
要するに、「あなた」は一般的に敗戦後いつとはなしに代表格扱いされてはきてはいるが、いつまでたっても日本人の大多数が日常的に最も頻繁に使う実質的に標準の二単代とはならず名目上、形式上の枠を出られない。形式的な用途には一応有用であるが私的、個性的な庶民の生活レベルにおいては使い易く親しめるものとはなっていない。その「あなた」の実情を無視してそれを日本語の体表的な標準二単代とすることは、空疎な形式主義を育てることにつながっている。
「あなた」が名実ともに代表的な二単代ではなく、ただ便宜的な形式上の二単代にすぎないことは、省略法を含めて他の二単代が乱立し、日常私的なレベルでは他の幾つかの二単代の方がさまざまに多く使い分けられているという事実が何よりも雄弁に物語っている。このような二単代の状況にもかかわらず、ヘタな日本の映画やドラマや小説などでは、現実には使われるはずのない相手や状況で「あなた」が相も変わらず無造作、無神経に使われて真実味乏しい空々しさが目立つことは珍しくない。実際、私などはその一事からだけでもそれらの作品の質の程度が或る程度見当がつくほどである。
日本語の一単代についても似たような事情はある。
一単代にも「わたし」「わたくし」「あたし」「ぼく」「おれ」「わし」その他さまざまなものがあり、それぞれ微妙な差別的ニュアンスを持っている。ただ、大人の社会での実情は、差別色の少ない「わたし」「わたくし」という語が形式的にも実質的にも代表格として他の一単代より抜きん出て安定して使用されているようであり、使用が省略されることも少ない。もっとも、男は幼少の頃は「ぼく」や「おれ」が普通で、社会へ出る前に無理に「わたし」「わたくし」を身につける一時期を経なければならないが、そのハードルは比較的スムースに越えられているようである。これに対し、女は幼少の頃から「わたし」を使うのが一般的で、長じてもそのまま使い続ける習わしのため、このことには特に問題はないようである。
代表格としての一単代の「私」も二単代の「あなた」も女性に使い易い言葉である点は興味深い。
ここで、挿話を一つ紹介したい。
何年か前のことであるが、たまたま私がラジオを聞いていたとき、電話相談なるものをやっていた。ラジオの聴者からの日頃の悩みごとの相談に対して識者が助言や回答を与えるというものだった。そのとき私の興味を惹いたのは或る母親からの相談で、その母親が電話を通して説明した内容はこうであった。彼女の娘が結婚して数年になり初めての子供ができた。それで久しぶりに彼女、娘夫婦、娘の夫の両親、が皆でいっしょに会うことになった。娘夫婦に子供ができるまでは、娘の母親として彼女は娘の夫の父親母親に対して、それまでは「お父さん」「お母さん」と呼んでいたのだが、子供ができた今は「お父さん」「お母さん」は変なので、どう呼べばよいのか教えて欲しい、というものであった。
子供が生まれる前は娘の母親として娘の夫の両親に二人称で「お父さん」「お母さん」と話しかけていたということは外国人には理解しにくい日本語特有の二単代の用法かもしれないが、日本人には分かり、しばしば見られる表現である。この場合のお父さん、お母さんは彼女の父、母のことではなく、彼女の娘婿の父親、母親を云う二単代であることは当の父親、母親も理解している。ところが娘夫婦に子供ができればその子の父親、母親は娘夫婦になり、娘婿の両親はお爺さん、お婆さん、とならなければならなくなってしまう。しかし、お爺さん、お婆さん、という言葉を使うのは失礼で、相手の気分を害するおそれがある。それではほかにどういう二単代を使えばよいか、というのが彼女の質問の主旨である。少なくとも彼女には「あなた」は使いにくかったし、省略法で済ませそうでもなかったのだろう。彼女の口調には真実味があり、思い悩んだ末の相談という感がうかがえた。
この母親のケースは一生に何度もあるものではない特殊なことかもしれないが、本質的にはこれは日本人にはありふれた二単代の用法問題と云える。実生活で相手に対するこれに類したさまざまな問題は恐らくは日本社会の至る所で日常茶飯的に経験されていることである。ただ多くの場合、いわゆる二単代を使わなくても二単代相当語や代用語、さらには便利なことに省略法を頻繁に使うことができるので、この種の微妙な問題は問題視されることなく対応されているのだろう。このラジオでの識者と称する回答者が何と答えたか私は憶えていないが、少なくとも私にはなるほどと感心するほどの回答がなされたとの記憶はない。省略法に頼らないでどれかの二単代を使うことを前提にした場合、この母親に適切な助言をできる日本人がいるとすれば、はたしてどのような助言をすることか。見方によれば、これは深刻な問題であるが、別の見方をすれば滑稽ですらある。きわめてありふれた日常的単語一つになぜこんな気苦労しなければならないのか。英語であれば、youを使えばよいのである。いや、youしかないのである。
これは一過性の問題ではなく、根は深い。日本人は千年以上にわたってこの種の問題をかかえてきたわけで、しかもその間、私の知る限り誰も二単代の多様さ、差別性、使い勝手の悪さ等に何の異も唱えなかった。その理由は何なのか。恐らく理由はいくつもあろう。例えば、言葉は人が生まれながら持っている一要素ではなく社会に伝統的に伝えられてきたものをただ後天的に覚えることによって習得して受継いできた文化であり、その先祖伝来の文化の使用に際して選択は自由であるものの、個人が個人的判断で改変・改質してよいという性質のものではない---すべて言葉というものは使い分けを要するものであり、二単代だけが特に使い分けが必要なわけではない---一つのことを幾通りもの言葉で表す例は多々あり、二単代だけが異例であるわけではない---言葉は不都合なものは消滅し、必要なものは新たに創られるという消長を経てきたが、多様な二単代が存続しているのはそれなりの必要性があるからである---仮に、その多様な二単代が使い辛く不都合なものであるとしても、今すぐそれらを改めなければならないという緊急性も事件性もない---、等々。その他にも理由はあろう。例えば、日本人は伝統的に自分の思うことをはっきり云うことを避け、相手を思いやって控えめに言う傾向がある。思いやりには多様な選択肢が必要であり、選択肢が一つしかなければ思いやる必要はない。そういった傾向が二単代の多様性とも関係しているかもしれない。ところで、そういった日本人社会の伝統はあるにせよ、現代の若い世代は外国へ旅する者多く、来日する外国の若者と接する機会を持つ者も多く、又、人や物のグローバルな交流が世界的風潮となっている現今、「あなた」をめぐる潮の流れに変化が生じても不自然ではない。
ここに、この問題を捉える上で外国語との比較という視点がある。島国日本では、十世紀以前からの漢字の流入という一事を除けば、二十世紀半ばの敗戦を蒙るまで日本が外国に占領され日本語が激変を受ける経験をしたことがなく、言語の伝統は何の支障もなく継承されてきた。近世以降にポルトガル語やオランダ語が入って来ても片隅の出来事で、一般化することはなかったが、明治期以降、特に昭和の敗戦以降は外国語が自由に日本に入って来るようになり、英語はもとより、諸他の外国語と短期的或いは長期的に触れる日本人は多くなった。米軍による占領を経た現今では、英語は学校での必修科目にさえなっている。日本社会の津々浦々まで主として英語由来のカタカナ日本語の片々は氾濫している。英語公用語化論が間欠的に唱えられたりもする。英語には二単代は事実上youしかないことを多分多くの日本人は知っている。英語以外の外国語にも標準の二単代は一つか二つしかないこと知っている人も少なくないはずである。比較材料には事欠かない。にもかかわらず、日本語の二単代が英語のyouとの比較で意識されることが全くない。その習慣は今も根強く続いている。この習慣と意識にこそ問題が潜んでいる。
㈣
一人称や二人称の代名詞は日常生活上の基本的な重要語であり、それは全ての言語について言えることである。日本語の二単代を単純化し、使いやすくするのは簡単である。難しく考えることはない。差別色のない、誰にも使いやすい一つか二つの二単代を、できれば一単代とセットで、新しく創って現存の諸々の二単代を廃せばよい。それだけのことだと私は単純に考えている。
新語創出というのは少しも珍しいことではない。この数十年来だけを見ても、漢字を主体にした旧式な言葉が実に多く廃れ、現今では夥しい数の外国語系の、主として英語由来のカタカナ日本語が氾濫するようになっている。科学技術用語にもそれは顕著に見られるだけでなく、外国語めいたカタカナ日本語を使うことが何となくカッコよいという風潮になっている。そういう点では新語に対するアレルギーはないどころか、むしろ身に着けたいアクセサリーのような感がある。
インターネットのこの時代、新しい流行語は瞬く間に広がる。新語を生成する代表的な方法は公募であろうが、それ以外にもいろいろあろう。ネット上で新語を流行らせることを商売にしている専門家はいくらでもいるようだし、個人が仲間同士ケータイで妙な言葉を通用させたりもしている。どのような方法をとるにしろ、言葉は上から押し付けられるべきものではない。新しい二単代として何よりも重要なのは、一単代とセットで、短く、誰もが気楽に使える、親しみやすい新語であろう。そのような新語を作り使用することに賛成するかとのアンケート調査がなされれば、私はためらいなく賛成するが、ここでその新語の候補を提言することは本稿の目的ではない。その新語創出使用が実現できた場合、新語の使い易さ、便利さといった恩恵を受けられるのは現世代ではなく次世代以降であろう。その種の新語が五年や十年で簡単に定着するとは思えない。
仮に二単代の新語が創出され、定着したとすれば、従来からのおびただしい数の二単代は十把ひとからげで博物館行きとし、すたれるにまかせればよい。すたれても文献には残る。肉親間や親しい者どうしの気心通じ合う二単代相当語や代用語などの呼称や、省略法といった二単代用法などはすぐにすたれることはないだろうし、その他の二単代であれすぐにすたれないものの成り行きは自然にまかせておけばよい。新語の二単代が様々な点で優れたものであるなら、やがてはおのずとその優秀性を示すことになるだろうし、新語はまたそのように誰にも優れて使いよいものでなければならない。
しかし、新語を創出するには日本人一般の総意が当然必要である。その総意が生まれるには日本人一般の、二単代の現状についての意識の裏付けがなければならない。その意識に基づく新語必要性への過半数の賛意がなければ、新語創出などたわごとに過ぎない。私はその意識の発展を念ずるのである。