自分と向き合う時間なんて取る暇がないと。
自分のことなんて考えている場合じゃないと。
自分の深層に思い巡らせる程余裕なんてないと。
そんなことを云って見ないふりをしている内に、気づけば向き合い方を忘れてしまった。

周りの社会集団とできる限り対等なコミュニケーションを取るために。思考回路を雰囲気を伺い、自分ではなくその社会集団に合わせた言葉選びをしている内に、自分と対話してくれる貴重な存在との関わり方を、見失ってしまった。


周りを伺って周りに合わせた役割を見つけることと、その社会集団の中での自分の役割を確立することは違う。
周りを伺うから自分の役割に自信が持てない。否定されることが恐い。

望んだ明日を生きたいのなら。
その社会集団の目標に合わせた役割を見つけることだ。
今日を後悔したくないのなら。
自分の意志を、蔑ろにしないことだ。
たとえ、その意志が反論だとしても、客観視したときにイレギュラーだとしても。

集団のために自分を誤魔化すなんて、勿体ないじゃないか。
その社会集団は、自分の一生とイコールではないはずだ。自分が組み込まれている社会集団は、ひとつではないはずだ。
個人が幾つもの集団を掛け持っていることは、なにも特異ではない。
それなら、ひとつくらい、取り繕わない場を設けてみてもいいのではないか。
それで否定されるなら、嗤われるのなら、取り繕ってまでその社会集団に自分の存在意義を求める必要などないのだろう。

勿論、自分を押し殺すことと我を通すこと、他人と意見を擦り合わせる努力をしないことは全く違う。
それは、いつか機会があったときにでも述べようと思う。


勿論、理解することと、行動に移すことでは大きく違う。先程述べたものはすべて希望論、理想論と表現してもいいくらいだ。理解はしてもそう簡単に行動に移せたなら苦労しないだろう。
それでも、心持ちひとつでなにかが変わるように思う。
いつか、なにかが言えるかもしれない。変われるかもしれない。「それは違う」と思えることに意味が生まれるのではないだろうか。そう思えた自分に自信が持てるというだけで、なにかが変われると思えないか。

これは、ひとつの意見だ。視点だ。
どう解釈するかは自由だし、取り入れるなり読み流すなりしたらいい。
それでも、そんな見方があるのだということを。
どうか頭の隅に、置いておいて欲しい。