東日本大震災で最も多い4千人が犠牲になった石巻市。石巻日日新聞は津波で社屋が水没し輪転機も止まったが手書きの壁新聞を避難所に届けると決断。記者たちは通信や交通手段も途絶する中、水に浸かって奔走した。
掲げた編集方針は被災者の心に“希望をつなぐ”記事。しかし壊滅したふるさとを前に茫(ぼう)然となり、事実を伝えざるを得ないと葛藤する記者も。絶望と希望のはざまで記者たちは何をどう伝えたのか。懸命に格闘した7日間の記録。
この新聞社の記者たちから見えたのは
何ができるか
何をやるべきか
それにとことん向き合う姿勢でした。
輪転機が止まった状態でも社長は「休刊にすることは考えてなかった」とのこと。
職場で被災した社員の人達。
家族も連絡がつかない状態で、彼等が起こした行動は、市役所に行って情報を集める事でした。
津波で浸水した町のなかを、紙とペンを頭に乗せて瓦礫をかき分けて、役所まで歩いて行ったそうです。情報を手に入れるその目的の為だけに。
そうして集めた情報を、手書きの壁新聞として、避難所の壁に貼って回ったそうです。
避難所にいる人達は、泣き叫ぶ訳でもなく、声を荒げる訳でもなく、皆無表情だったそう。
何があったのか。
これからどうなるのか。
不安しかない中で、何を考えていいのか
考えるべきなのかそれすらも分からない。
そんな人々の無の状態を目の当たりにした記者達は、電気が通るまでの数日間、とにかく被災状況、町の状況を、壁新聞で伝え続けました。
数日後、県外から報道陣が押し寄せ、被災の全容が伝えられ始めました。
人口一万人の石巻市で、行方不明者は半数の五万人にのぼり、メディアはこぞってその悲惨さを毎日伝え続けました。
その様子を振り返って、被災地の石巻日日新聞社の社員の方は、「外の人間の記事は他県の人の為の記事だった。私達は同じような伝え方はとても出来なかった」と語っていました。
自分達が伝えられること
目の当たりにした現実
その中で何をすべきか
その使命に向き合い続け、情報を発信し続けた被災地の新聞社。
悲惨さではなく、少しでも人々の希望につながる言葉、情報を届けようそう思って記事を書いていたそうです。
被災地の方の語る「希望」「つなぐ」は、私達(他県)の人間が語る言葉とは、重みが違う。
やっぱりどこか他人事だった自分自身にはっとさせられました。
震災はどこかで起きたことではなく、
私たちの国で起きたことなんだ。
震災を忘れないようにと、石巻市に訪れる観光客達に、語り継ぐことを使命としているボランティアの語りべの方々がいます。
「観光客は去年の半数になった。ただ語るのではいけない。わざわざ足を運んでくれた方々の心に残るように、丁寧に語り継いでいかなければ」
語りべの方々からは「このまま風化させてはいけない」という危機感と「私達がやらなければ」という強い使命感を感じました。
この地を訪れて、ちゃんと自分の目と肌で感じなければそう強く思いました。