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リラクゼーションハンドセラピスト見知得@みちえです。

 

こんにちは( ´ ▽ ` )ノ

 

母が脳梗塞で倒れてるのを見つけたのが、2003年の10月。

倒れている母を見つけた時の状態は忘れられない。

あれから16年の月日が過ぎた。

 

昨日母が私に言った。

 

いつになったら死ねるのだろう。

いつまでアンタに世話を焼かせるのだろう。

自分の人生と比べると、人の世話ばかりしているアンタがかわいそう。

早く私は死んだら アンタが楽になるしいいのにと思う。……と。

 

デイハウスから帰ってきて、着替えを手伝っているとボツボツ話し出した。

 

母は右側に麻痺が残り、足は具足をつけて杖で歩いている。

右腕は全く動かず、方は半脱臼したまま、腕がぶらさがったままの状態、

母は2級の障害者だ。

猫2匹とひとり暮らしている。当時は犬もいた。

生活する為には誰かの手を借りないと生きていけない。

私は16年、今でも母の通い介護をしている。

 

長く生きれば生きるほど、娘の負担になっていると、

申し訳なく感じてくるのだと思う。

 

だから、私は母に言ったのだ。

 

此方こそ、長生きさせて申し訳ない……と。

 

16年前、たまたま私が母を見つけた時は、もう母は死にかけていた。

垂れ流し状態で、数時間遅かったら死んでいたと、後から医者に聞かされた。

 

死んでいたかもしれない母を生き返らせたのは私だ。

救急病院の集中治療室(二週間いた)から普通病棟へ移った3日後に、

寝台タクシーで別の病院へ移し、

1週間で尿の管が取れたのを機に、早くリハビリを始める為に

U字型の歩行器に動かない右腕をマジックテープでくくりつけ、

ズボンのを持ち、毎日毎日、病院のリハビリとは別に、

具足ができれば杖に変更して歩かせた。

 

今思えば、かなり無茶な事だったと思う。

きっかけは、医者には介護4で車椅子になる確率が高いと言われたからだったかな。

病院にも何かあったら私が責任を取ると一筆書いたような気もする。(苦笑)

 

車椅子では、犬と猫と暮らせる家には帰れない。

私は、母が実家で暮らせる事をイメージし、

JRと自転車で実家と職場に通いながら食後の後に半年間歩行リハビリを続けた。

 

そして、退院した後は、血管が再度詰まらないように、

水のクラスターが細かいミネラル水に替え、食事の管理が始まった。

母は、半身は不自由だが、内臓は全て正常値、私より内臓は優秀だ。

そうやって管理をしてきた結果、えらく長生きしてしまったのだ。(苦笑)

 

私が見つけ、勝手に母の命をつないだ。

その為に母は第二の障害者人生が始まった。

 

長生きさせてしまったが為に、筋肉はどんどん落ちてくる。

デイケアのリハビリも大変になり、膝の痛み、左腕の痛みに母は悩まされている。

ここまで生きたから先月生まれた2人目のひ孫も抱っこできた。

良いことも悪い事もあるが、全て私もせいなのだ。

母が申し訳無く思う必要はない、私の方が申し訳ないとおもうくらいだと伝えた。

 

母の体の痛みや体の歪みを整えるのに私は手のひら整体や整体を学び出した。

それがとても私の性に合っている。私は楽しく学んでいる事を伝えた。

それなりに楽しくやっているのだと。

 

それでももう疲れた、後どれぐらい生きんないけんのやろ?(84才です。)

 

って言うから 

私が、還暦になったら屋久島に行きたいっち、思っとるけ、

それまでぐらいやない?っち答えた。

 

あと、5年?

 

そうやね、5年ぐらいかなー?って言うと落ち着いた。

わからんけどさ、取り敢えず5年楽しんで生きようよ。

私も、楽しみながら介護するし。😁

 

膝や体の痛みは障害者にかかわらず、80過ぎたらみんな出てくるよね。😁

だから、私に申し訳ないとか思わず、体の痛みと上手に付き合いながらお友達と遊んだり、

趣味を楽しんでほしいと伝えた。

 

母の他に叔母の介護、同居の義母がいる。

この2人も頼まれたわけじゃない。

私が介護すると決めた。

同居するよって、引っ張ってきた。

それが流れだと感じたから。

その流れに乗ることにしたのだ。

 

年をとると生きることが辛くなったりするよね。

母と同じ様に、叔母も義母も言葉をこぼす。

私はいつまで生きたらいいの?アンタが大変やろ?って

だから2人にも私に申し訳がる必要はないと伝えている。

 

私が介護し出して、3人とも長生きしてるのは確実だ。

だから2人にも長生きさせて申し訳ないなと思っている。(苦笑)

 

まぁ、仕方ないやね。私軸でしか生きられないから😁😁😁