凄いっていう言葉が嫌い。褒め言葉のやつ。他人に向けられるのも、自分に向けられるのも。

 凄いってどういう言葉だろう。その言葉の多くは結果に対して向けられ、そのフィールドにいる他の人間よりも優れていることを表しているように思う。その言葉の何が嫌いなのか。

 まずは他人に向けられているとき。これはごく簡単で、自分が完全に「その他多数」の方に配置されるからそれが気に入らないのだ。

この上なく自分本位である。「頑張ってるね」「頑張ったね」が他人に向けられたときも、自分がその他に配置されることに嫌悪感を抱くのは変わりないが、自分の努力がその褒められている人よりも足りなかったんだな、と思える。あっさり負けは認められないが、この嫌悪感を抱かないように、次は優越感に浸る側になれるように頑張ろうと思う。だが、凄いは嫌いなのだ。すごいという言葉は結果にしか目が向けられていないように思える。結果にしか目が向けられていないということは、その人の頑張りや努力が認められているというよりも、その人自身の人柄、スペック、才能が認められているような気がする。自分自身は才能もなければ、人柄もよくないし、容量だって悪い。理解力もない。そんな人間の横で誰かがすごいといわれてしまったら、こちら側に勝ち目はないのだ。

 じゃあ、じぶんが言われる分にはいいのか。全くそういうわけではない。すごいを向けられた側の視点でこの言葉を追ってみる。先ほども書いたように、凄いという言葉はそこまでの努力や過程に一切目を向けない。ということは、結果が褒められただけで自分は褒められていない。凄い結果を出す人間は誰でもいいのだ。人型があるだけで中身はない。凄いという言葉に結果を出すことができた自分、というこちら側からした本体が吸い取られて結果だけが残る。

 また、凄いという言葉は、周りの人間よりも優れているということを表すと明記したが、向けられている方は不愉快で仕方がない。周りにいる人間より凄いということは、そのフィールドでの自分自身の成長速度は極めて遅くなる。自分がその世界にいることの意義を疑うまでに。成長をしていなければ、生きている意味だって、私が私としてそこに存在する価値だって全くないと考えている人間にとっては生死を揺るがす事態に追いやられるといっても過言ではない。

 そんなこんなで私の成長と存在価値を脅かす、凄いという言葉が嫌いだ。