皆さん、こんにちは
青海林檎です
今まで、青森の歴史の話はいくつか書いていたのですが、今日から、中世青森の歴史からは外す事ができない人物・津軽為信について書いていきたいと思います。
津軽為信は、天文19年(1550年)1月18日に生まれた、とされています。
出自については今ひとつはっきりしていません。
津軽家側の資料では、赤石城(鯵ヶ沢町)で堀越城主武田守信の子として生まれた、とされています。
一方の南部家側の資料では、南部支族であった久慈治義の二男として生まれ、大浦城(現在の弘前市)城主大浦為則の養子となり、やがて大浦家を継いだ、と言われています。
現在の研究では、久慈家出身説が有力とされています。
18歳の時に大浦家の養子になり、そのまま大浦城(現在の弘前市)の城主となります。
その頃、南部宗家では、24代当主南部晴政と、石川城主・石川(南部)信直が決定的となってきました。
以前ブログで、為信の領土獲得 の話をしたのですが、このとき為信は久慈氏と共に南部晴政に付き、「津軽の領土を好きなように切り取って良い」と言われたようなのです。
南部当主から許可を貰えばコワいものなし、為信は早速、石川信直の実父高信が守る石川城を攻めて落とし、高信を自害させます。
ところが、ちょうどこの頃に、南部晴政が死亡(暗殺か病死かは不明)、晴政の子の晴継も暗殺されてしまいます。
次の南部当主を決める会議においては、石川信直の味方をしていた北信愛(南部氏で1,2を争う武力をもっていたようです)によって、石川信直は南部宗家を継ぎます。
このため、南部晴政に味方していて、石川城を攻め落としていた大浦為信は、自分の身の安全を図るために、南部からの独立をせざるを得なくなったのです。
参考サイト
歴史の勉強・津軽氏 詳しく情報が記載されています。
津軽為信
(Wikipedia より)ヒゲもじゃもじゃの為信の肖像画が見れます。