コーヒーを流し込んでも流し込んでも羊のことばかり考えてしまう昼下がり🐑🐑🐑🐑🐑🐑🐑🐑🐑

あの、牧場で羊が逃げないように、触るとちょっとピリリリ…って微弱電流が流れてる針金って、効き目あるのだろうか…
ヤツら、私と比べてかなら皮厚そうだけど、意外と肌が敏感なのかしらん。


iPhoneからの投稿
子供にかえりたいと思うことはついぞない。
誰からも「寝る時間」や「食べるもの」や「交友関係」だのに口をはさまれないっていい。
最近、私のマイブームは朝食の前倒し。
朝ごはんを食べてから寝ると、朝、ゆっくりできていい。
というわけで朝ごはんなう。
久々に髪を切った。
・・・半年ぶりくらいか。

べつに、切るつもりもなかったのに、道を歩いてたら頼まれたのだ。

手ぶらの男が小走りに追いかけてきて、

「ぼく、今日休みなんですけど、髪を切らせてくださいっ」

・・・って、宗教の勧誘かと思った。


たしかに、自分、徐々に野生化してて、美容師の修正意欲をかきたてる頭だったかもなぁ。

私が、近所のネコに眉毛を描き足したくなる衝動にも似て。


「えー、いいんです。長い方がラクだから」

「短くしないから、ぼくに切らせてください」

「???」

「ぼく、ほんとに、すごくうまく切れるんです。切らせてくださいっ」

"ほんとに"って・・・プロじゃないのか・・・?と思ったら、笑ってしまった。


で、ほんとに、髪が切りたかったらしい。

カツラがひとつつくれそうなほど。


頭、軽っ











先生が亡くなった。

正確には亡くなっていた。先月に。

私は今日、先輩からの電話で、そのことを知った。電車の中で。

先生は死をしっかりと予測していて、詳しい遺言を残していかれたそうだ。
誰にも知らせるな、葬式もするな、墓もつくるな・・・と。
今にも、あの自信たっぷりの朗らかな笑い声が聞こえてくる気がする。

私は先生の最後の弟子だったと思う。
先生はいつも忙しくて、「後進の指導」なんてことは眼中になかった・・・ように思う。
私はどんなに怠けていても、先生にうるさく論文の不出来を指摘されたり、書き直しを迫られたりした覚えはない。
放牧状態にすっかり味をしめた私が、どんなに好き勝手にしていても、会いに行けば、先生は変わらない態度で朗らかに「ぼくの学生」と呼んでくださった。
それだけ、ご自分の研究に夢中だったのだ。
そして、その姿勢そのものこそ私が先生から学んだ最大のものであり、敬愛するいちばんの理由だった。

先生は私に何かを教えこもうとしたことは一度もなかった。
私と先生ははごくたまに顔をあわせ、その時どきに考えていることを言いあった。
私が質問し、先生が答える、のだが、それは単なる形式上のことだ。
私たちは、かみ合わない質疑応答を繰り返し、満足した。少なくとも、私は。

先生は私の問いそのものには答えなかったが、私の知らないことをそれこそ滔々と流れる大河のごとく語った。
先生は、私の話を「ほっほう、ほっほう」と笑いながら聞いてくれた。

そんな人は二人といない。

この夏、ポーランドで私は数え切れないほどの墓に参ったが、
先生に会うには、どこへ行けばいいのだろう。

花を手向けようにも墓はなく、線香やろうそくをあげる祭壇もない。

いや、膨大な著書さえあれば、墓などとるに足らないことかもしれない。
先生はその中に生きているも同然なのだから。



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なんで、この本にこんなに惹かれるか、といえば、
結局、自分はよそ者が好きなんだろうな、と思う。

そして、自分が根をおろしてしまうことがこわい。


夜、アッラディーンが来た。

先生、弟が病気なんだ、と言う。
どういう状態なんだい? と私は尋ねた。
熱がとても高くて死にそうなんだ。
薬をあげようか?
いや、いらない、蜜柑をくれないかい。
弟は蜜柑を一度も食べたことがないんだ。



こんなくだりを読むと、私は、薬よりも蜜柑の方が真実である、そんな世界がある、と思うのだ。
最近、本に呼ばれる。
会うべきときに、会うべくして、出会った感じがする。

フェリット・エドギュ。

トルコとイランの国境あたり。

自分には想像するのも難しい、空気の薄い山岳地帯。

自然も、政治的状況も、何もかも遠い世界からやってくる
石のつぶてのような言葉。


人間よ、死ぬなとは言わない
死なないことを願っているのではない
自分のためでも他人のためでもない
子供達が死なないことを願っているのだ
子供達の死は耐えられない


ふいに答えが降ってきたような気がする。
石のつぶてとなって。

おーい、死よ
ベッドで彼を見つけておくれ
山ではなく
岩の後ろに隠れているときではなく
国境地帯ではなく
それに、銃で撃たれてではなく
私の側で寝ている時ではなく
私の次に彼を見つけておくれ
私が彼の死を見なくてもすむように


自分には想像もできない世界がある。
けれど、なぜかそこに、自分にとっての真実もある。
ポーランドのユダヤ人は、ポーランド語を使い、イディッシュ語を使い、ドイツ語も使う。
どの言語を選んで話すか、が、その人のスタンスを語る。

ポーランドで鉄道関係者には、英語が通じなくてもドイツ語は通じることがわかったのは、もうポーランドを後にする日だった。
特定の人以外とは、ヘタクソな英語か、それも通じない時はジェスチャーで話した。
もしかしたら、ドイツ語は通じたのかもしれない。
なんとなく、ためらわれた。ポーランド人に対してドイツ語を使うことが。


つまり、私はポーランドへ入ったあたりから、気づいてしまったのだ。

今も昔も変わらないドイツの「傲慢」に。

自分の「常識」が立つ場所の危うさに。


そして、ドイツの他にも、自分がよりどころにしている地盤がどんなに危ういか、ということにも。


それで、私は、とりあえず逃げている。

どこに向かっているのか、自分でもわからないままに。


薄くなった氷が足元から割れてくる、その上をまだ割れていない場所へ、走っているような気がする。


西は行き止まりだから、とりあえず、東の方へ。


頭の中で鐘の音がガンガン鳴る。

・・・・・・ジカンギレジカンギレジカンギレジカンギレ・・・・・・
嘘つきは泥棒のはじまり。


嘘をつくことは悪なのか。

でも、私の心のヒーローはたいがい嘘つきだ。


泥棒することは悪なのか。
・・・というか、そもそも「所有すること」は許されるのか。
自分が住んでいない土地を「自分のもの」だと主張するのは、不思議なことではなかろうか。


労働することは善なのか。


法を守ることは善なのか・・・法そのものが不完全なのに?


水をも漏らさぬような法があったとして、それはいったい「正義」でありうるのか。


合理主義精神はほんとうに「妥当」なのか。


科学は「真実」なのか。


いや、いや、いや。



神が語られない場所で育った自分であっても、こうやって「神」にぶちあたる。

そして、何の神とも契約していない自分は何重もの壁ごしにしか、神の声をきくことはない。


「神」の体が"良心"と"法"であるとするなら、コーランはかなりわかりやすい「神の言葉」だ。
それでも、「信徒」に関する二転、三転、四転、五転する言葉には、マホメットの苦悩がにじんでいる。


つまり、

なんというか、

最近私はある意味、

きまり(法)の「ゆるさ」が、一種の「良心」であるように思うのだ。


すなわち、「ゆるし」ということが。


「最後の聖書」を自負するコーランの中で、マホメットは繰り返す。



”Allāhはよく思い直し、よくゆるし給う。”



そのリフレーンに、神なき私でさえも、共鳴する。


久びさに「満員」の映画館。上映10分前に着いて残席10席余りで滑り込み。

「ソハの地下水道」@シャンテシネ。

ポーランド人の貧しい下水修理工が14ヶ月もユダヤ人の集団を地下水道に匿って養い続けるってストーリー(実話)もすごいけど、人間があくまでリアルに等身大で描かれているところがいい。

こういう話はたいがい○○版「シンドラーのリスト」って定番のキャッチコピーで紹介されるわけだけど、「シンドラーのリスト」と比べるなよ、って思う。(嫌いだ、スピルバーグのあの映画。)



最前列でほとんど仰向けで観ていたら、本当にいっしょに下水道に閉じ込められているような錯覚をおこした。(画面全体を見たい人は、あらかじめネットでのチケット購入すべきかも)。
自分はじっくり見るつもりで、すでにDVDを英語字幕版で注文済。でも、教室使用はちょっとムリかもなぁ。等身大ってことは・・・濡れ場多すぎて(;´▽`A``



それにしても、人間の「他人に対する救済衝動」スイッチって、どういう構造になっているんだろう。

東京の日常シーンでは路上に誰かが倒れていても、その脇を大勢の人がスピードをゆるめずに素通りしていくのに・・・。