何かに導かれるように。

ただアクセルを吹かした。


通り過ぎる街並みが。

ただ雨に濡れている。


もう。

記憶を巻き戻すことも。

未来を描くこともない。


俺にはただ。

時間はそこにあるだけだ。


道も、そう―


今は、目指したい場所もなく。

あてもないまま…。


所詮、どんなにあがいても。

天の描く道筋からは、逃れることはできず。


空に雲を描くように。

神は悪戯に。

出逢いと別離を醸し出す―。


暗く孤独な道を。

照らすと信じた、月の光は。


今は。

違う空に輝いている…。




―ひと気のない森に差し掛かると。

雨は霧へと姿を変えた。


そこに見える、見慣れたはずの建物は。

白い雨に煙って。


瞬きをする間にも、砂塵にかき消されそうな。

幻想の楼閣に見える。


…なぜ、俺はここにいるのだろう?


心のどこかで。

まだ。

ここが帰るべき場所だと思いたいのか―。


それとも。

幻想のまま、纏わり続けた過去を。

この手で封じ込めるためなのか―。


わからないまま、車を降り。

玄関の扉を開ける。



これまでのような、安らぎはない。


建物も絵画も、他人顔で。

招かざる侵入者を迎えている…そんな錯覚に陥る。


無言の忠告に耳を塞ぐように。


廊下を足早に通り過ぎ。

アトリエへと向かう。


俺は、ポートレートの前に進みながら。

これまでとは、まるで違った感情で。

彼女の前に立ち塞がった。




「…オマエは確かに悪魔だよ…」


静寂の中で。

俺の声だけが、不気味に響き渡っている。


さっきまで、途切れていたはずの感情が。

対象となる写真を前に。

今更ながら吹き上げてくるのを感じた。



「あぁ…俺は確かに夢を手に入れた。

けど…1日たりとも、その満足感を得られたことはなかった。

いつも、オマエのことが気がかりで。

夢を選んだことに、罪悪さえ感じて…。


それでも、オマエは…俺を待ってると思ってた。

その間…俺との約束を忘れて。

朔耶に乗り換えて。


オマエは…笑ってたんだよな?


“どんな気持ちで待ってたかわかる?”…だ?


…そんなもの!

わかんねぇよ!!」―



白い壁に、拳を当てると。

額が外れて。

床に叩きつけられた、若菜の写真は。

粉々に砕けた、ガラスにまみれた。


まるで汚らわしいその笑みが。

罰を受けるかのようで。

小気味がいい。


俺は、絵もキャンバスも、画材道具も…

およそ、若菜に繋がるもの全てを、家中から取り外し。


庭に運び込んだ。




「…オマエが。

俺を消し去ったように。

俺も、オマエを消してやるよ」―






全て焼き払って。

この別荘も処分して。


そうすれば。

俺の中から、オマエの亡霊は。


煙と共に。

消え失せるのだろう…。



オマエはもう。

どこにもいないのだから―。




























煌びやかな照明に、目が眩む。


ライブハウスが狂った地下室なら。

キャバクラは、幻想のオリンポスとでも表現するべきだろうか。

擬似恋愛と、咽返る酒の匂い…嘘くさいPARADISE-。


誰かに耳打ちをされて。

一人の女が首を傾げる。


戸惑うように、足を進めて。

スローモーションのように、その“時”はやってきた。


5年間―

待ち続けた、瞬間が―。





「りゅ…うく…ん…?」


変わらない若菜の声に、顔を上げると。

…そこには。

俺の知らない女がいた。


髪を金色に染め上げ。

耳にはいくつものピアスを挿し。

長いネイルには、派手なデコレーションが施されている。


丸みを帯びていたはずの頬は痩せこけ。

殊更に黒く縁取られた目だけが、やけに大きく見える。


動揺を、俺は隠したつもりだったが。

若菜は敏感に察したのかもしれない。


「や…だな…」


呟いた声は、少し尖っているように聞こえた。


「…久しぶり」


俺はやっとのことで声を絞り出すと。

若菜は諦めたように、席へと着いた。



慣れた手つきで、ふたつのグラスに氷を入れ。

ウィスキーを流し込む。


酒の用意が整うと。

儀礼的に、グラスを掲げる。


俺は戸惑いながら、それに習うと。

グラスは小さな音を立てて。


無言の乾杯―。


若菜は。

明らかに苛立っていた。


俺とは目を合わせようとしないまま。


グラスの水滴を拭き取ったり。

やたらと腕時計ばかりを気にしている。


俺は、そんな彼女の様子を見守るだけで。

酒を口につけることもできずにいる。


聞きたいことも、話したいことも…何も浮かんでこない。



ただ、若菜に逢えたら。

何かが変わるような気がしていた。


5年間―

1日として、若菜を想わない日はなく。

苦しまない日は、1日もなかった。


若菜なら。

いつも俺のために笑ってくれていた、若菜なら。


あの時のままの笑顔で。

想いを受け止めて。


苦しみから、救ってくれるような気がしていた。


だが。


目の前の若菜は。

変わり果てたように。


親しみの欠片もなく。

再会を喜んでくれている風もない。



まるで…別人だ。



それでも俺は。

どこかにかつての面影を探そうと。


祈るような想いで、彼女をみつめていた。




「…誰に聞いたの?」


若菜は、目だけを俺に向けると。

斜めからの視線で、口を開いた。


擦れた素振りに、思わず言葉が上擦る。


「この前…たまたま、雪さんの店で…」


「雪さん…。じゃ、朔耶とのことも聞いてるでしょ?

あたし今。朔耶と住んでるの」


「……」


「竜クンのほうは…流雅って呼んだほうがいい?

…夢が叶って、忙しそうね。

こんなところで油売ってるヒマないんじゃない?」


「…わか…な…?」


話し込むほどに、若菜の表情は歪んでいく。


塞き止めた言葉が溢れ出すように、勢いを増して。

唇の端が、微かに震えていた。



「恋愛よりも、夢を選んだあなただもんね?

こんな所に来る必要ないでしょ?

こんな所で…。

こんなあたしを見て…。なにが楽しいの…?」



若菜の声は、涙声に変わっていく。



「若菜…俺はずっと…」


「ずっと、なに?

自由に…歌を歌って。

ファンの人に囲まれて…?

あなたの夢は、叶っていくのに…。


あたしがどんな想いで。5年間、過ごしてきたかわかる?

なのに。

あなたは…どんどん遠くなって…。

近づくこともできないくらい、遠くなって…」


「待っててくれって…言ったじゃん…」



「待てなかった、あたしが悪いの?

変わってしまった、あたしが悪い…?

…そうだよ…。

もう、あの時のあたしはいないんだよ…。

だから…こんな姿…見られたくなかったのに…」



若菜は、泣き顔のまま、俺を睨みつけると。

よろけるように、立ち上がって。


そのまま。

二度と、席には戻って来なかった。





尋常ではない雰囲気に。

店内はざわめきだしていたが。


現実で、何が起きているのか…意識がついていかない。



白く霞んでいく、世界を前に。


俺に、わかるのは。



“すべてが終わった”―



ただ…それだけだ…。