フーゴ・パンナコッタは静かに暮したい
Amebaでブログを始めよう!

suiside

自殺について真面目に考える。






もし私が自殺したならばこの記事が重大なもののように感じるだろうが


いま書いているのは客観的なことであって


プライベートなこととは切り離して考えていただきたい。




しかし無関係とは言わない。






人が生きる目的はない


生きるから生きる。




愛のためだ、夢のためだ、家族のためだ、なんだかんだって


それらはすべて後付けのものであって


生きているから生きる




目的があるから生きるのではなく


生きているから目的を見つける


目的なしでは生きるのが辛く感じるから目的をまず見つける


見せかけの目的を見つけて


それに向かって進んでいるかのように見せかけたい




サッカーでもなんでもいい


がむしゃらに走って


ボールを蹴って


汗まみれ泥まみれになって




その最中には思わない




なんでサッカーなんてやってるんだろう




熱くなっている人たちは思わない


考えない




妙に冷めた人だけが


気づいてしまう


目的がないことに




楽しいからさ、という人がいる


楽しめない人はどうなるんだと応える




いつか楽しめるよ、という


そのいつかはいつ来るんだ




そもそも楽しみたいとも思わない




妙に冷めた人は妙に冷めた考えで妙に冷めた言葉を放つ




人生ってのはそういうこと


熱くなれるものがあるうちは


何も考えないで済むうちは


人生の目的なんて考えなくてもいい




無気力でもいい


他人のレールに従って進むのも


何も考えないで生きることができる




妙な人間が困る




ふと思ってしまう




そうして気づいてしまう




生きなくてもいいんだと






それを間違いだと


完全な間違いだと否定できるだけの根拠があるだろうか




他人のために生きなければならないという


責務を果たすために生きるのは最も自由から外れた場所にあるわけで


社会を構成する一人の人間として考えたとしても


大多数は生きたままで在り続けるわけであるから




それを踏まえて考えれば


自殺することは


至極真っ当


正常な思考


自然な流れ




ではないか




生きていると実に様々なことがある


楽しいこと苦しいこと実に様々


プラスの要素もあればマイナスの要素もある


どちらも楽しめる人はいい




どちらかしか楽しめない人


どちらも楽しめない人


比率がどう考えてもおかしい人


どうでもいい人




彼らにも笑って過ごせというのは些か酷




笑えないでも生き続けろというのならば


それはそういう社会なのかもしれない


何かに甘えて生きてきた結果なのかもしれない


しかし


まだまだ甘い社会に生きているのならば


自ら死ぬ権利ぐらい認めてほしいものだ


いや


認められているのだろう


ただ周りがまだ騒いでいるフリをするのは


一種のセレモニーである




死者は尊いものなのだ


死ねば二等級上がってしまう



はじめに

さて アメーバブログ





アカウントを取得してから一年以上経ちますが、


ようやくブログを更新することにしました


更新というよりも今から始めるわけですね






まず、私は自分の感性のままに文を書きつづります




それゆえにその情報元が正しくない場合があります


また私の考え方が偏っている場合があります


その点を十分に理解した上で読んで頂きたいです




あと、いつブログを読んでも理解できるように


時事ネタであっても、一応の説明はするように致します


そんなの言われなくても知ってるよ、


ということも回りくどく説明しちゃいます




次に、ブログへコメントをしてくださった場合ですが、


原則:気が向いたら返信する


ということで理解して頂きたいです


と言っても、私のブログが皆様に読んで頂けるかどうかは


まだ全然わかりません


おそらく誰にも読まれずにひっそりとするのでしょう




でもまぁ一応、記しておきます




なお、記事の削除は基本的に行わないです


記事の書き直し・追記は、その旨を記事に記します

優しさ

好きなタイプを訊かれると
優しい人
と答える人は多い。

優しさ
というのは
良い人間であるのに
必要な条件だろう。

しかし
優しさとはなんだろう。
優男とは悪いイメージで使われる。

優しさを持つにも関わらず
それではダメだそうだ。

人に優しくするというのは
相手が喜ぶことをしたり
相手が和むような態度を取ることをいう。

したがって
優しさが過ぎると
相手の機嫌を伺ってばかりになってしまう。

そんな自分に芯のないような男を
優男といい
誰かを護ったり引っ張っていく立場にある男としては
良くない性格とされている。

つまり
優しいだけでは良くない。

もっと言うと
見せかけの優しさでは良くない。

本当の優しさというものを考えよう。

相手が喜ぶことをするのが
優しさだとして

相手が喜ぶことばかりをするのは
果たして相手の為になるのだろうか?


例えば
幼児が転ぶのは
助けてはいけないという。
転ぶ前に支える
或いは転んだの起こすというのは
転ぶのを防ぐ能力を低下させ
起き上がる力を失わせる。

そんな大袈裟な、と思うかもしれない。
だが実際に、
転んでとっさに手をつけない子供は増えている。
それは過保護な親が大きな原因だとされている。

これは物理的なものだけを指すわけではない。

精神的に、何かつまづいたとき
すぐに助ける誰かがいれば
一人で立ち上がれなくなる。


さて、それを助けることは
優しさなのだろうか。