日本で梅雨があけたという声をぼちぼち聞く頃、韓国の梅雨が始まる。

 今年も6月26日からほとんど毎日雨が降っている。

 その前日、私は断捨離を決行していて、

 直後の梅雨入りだった。

 これも何か意味があるんだろうなぁ、

 それまではカンカラカンの晴れだったので、最初は恵みの雨だったのだ。

 水道水がものすごく出が悪かったのに、

 今は気持ちいいぐらい出てくれる。

 洗濯自体は楽になったけど、

 洗濯物が乾かないのが今度は悩みの種になる。


 連日の雨で増水した家の前の川。

 普段は川底が見えるぐらいの透明度があるのに、

 今はまっ茶色の泥を含んだ水が、所々白い水しぶきを上げて、ゴオォという唸り声と一緒に流れて行く。

 私はその様子を一段高い所から眺めていた。

 ただ、じっと眺めていた。


 そういえば、中学生だった頃、進学のことで父親と葛藤が生じた頃、

 雪の降る荒れ狂った海を遠くから眺めたことが何度かあったっけ。

 もちろん、北海道の冬の海は寒かった。

 でも、私はその荒れ狂った海に癒やされていた。

 吹き荒れる風に雪に、何の抵抗もせず、ただ、行くべき方向に行き、岩にぶつかり、跳ね返り、しぶきを上げ、そしてまた帰って行く。

 風が強く吹けば、強く、弱く吹けば弱く、風向きが変われば、その風に引きつられ、何の抵抗もなく、ただあるがまま、自然の法則のまま。

 抵抗しないということが、あれぐらい楽なら、私は冬の海になりたい、と思ったことを思い出していた。

 何を基準に良い子、なのかはわからないけど、

 良い子でなければ生きていく価値がない、

 そう思い込んでいたわたし。

 だからいつも良い子、を演じて

 心は怒りに満ち満ちていた。

 地雷を抱いたまま身体だけは大人になって、

 “怒り”は本来支配者と接触してしまい、相手を拒絶したい時に感じるもの(支配されちゃう人たち、大嶋信頼、青山出版)

 という、怒りの本質を理解できたのはつい最近のことだった。

 この支配者というのを、偽りの神とこの本の著者は書いている。

 怒りがくすぶって、生きづらいと感じる方は本を読まれたらいいのでここでは深く触れない。


 いつもは透明な水が流れ、泳いている魚が見えるこの川が、

 褐色の水をたたえ、豪音とともに流れていく姿。

 バケツをびっくり返したように降る雨。

 抵抗もなく、恐怖もなく、騒々しいとかもなく、ただそのままが、目の前を通過していく。

 これが自然の営みなのだと、

 心の深い部分で響く言霊。

 内在している怒りをこの濁流の泥に例えるなら、

 私はまるで、その泥が表面に現れないように透明なわたし(良い子)を演じながら流れていこうといていた増水した川だったのではあるまいか。

 そんなことはできるはずもない。

 何に対しての抵抗だったのだろう。

 わたしの心の内側を知ってか知らずか、いや、そんなことは、どうでもいいのだ。

 濁流はあいも変わらず豪音を立て、水しぶきを上げながら流れていく。