最近SNSでやり取りをしていると、美しい写真がたくさん送られて来る。

 仕事の都合もあり、遠方に行けない私は、それらを見ながら癒やされまくっている。

 一人でブラッとあちこちに行くのは大好き。

 そうやって、心も体も中庸になるようにしてるのかも知れない。

 大自然の中にポツンとあった我が家。

 なので子供の頃のお友達と言えば自然だった。

 とりわけ、何故か木が大好きで、よく裏山に入り込んで木登りをしたり、腰をおろして寄りかかって上を見上げていた。
 
 木洩れ陽を浴び、たくさんの葉の隙間から見える青空を眺めていると、この上ない幸せを感じた。

 韓国に来て、いろいろなことがあり過ぎてどうしようもなくなった時は、よく木を触ったり撫でたり抱き締めたり、腰をおろして寄りかかっていた。

 木には気があるので気力がない人は木に触れるといいですよ、と何かで知ったからだと思う。

 なので気がありそうな、それなりの樹齢がある木を探しては友達になっていた。

 最初は私の愚痴、独り言から大体は始まった。

 そして、そこに根をおろし、朽ちるまで動くことの出来ない木の立場を勝手に想像して、お話したこともある。

 「お前はすごいよなぁ。ここに何年いるの?きっと何年じゃなくて何十年だよね?もしかして何百年かな?

 いっぱいいろんなことを見てきたんだよね。中には、見たくなくてもここを動けないから見えたこともいっぱいあったでしょ?

 例えば戦争で、傷ついた兵士とか、逃げ惑う民間人とか、空を飛ぶ戦闘機とかさ。私なんかが想像も出来ないほどの過酷な現状をそのまま見てきたんだよね。」

 もちろん木は何も答えない。

 陽が当たれば陽に当たったまま、雨が降れば雨に打たれたまま、風が吹けば風に吹かれたまま、雪が降れば溶けるまでそのまま。

 鳥が巣を作ればそれもそのまま、鳥が巣を離れてもそのまま、その巣に別の鳥が入ってもそのまま。

 私が触ろうが、抱き締めようが、腰を降ろそうが、独り言をブツブツ言い続けようが、いつもそのまま。

 秋になって、紅葉し葉を落として冬支度をする時には、本当に素敵でもあり、悲しくもあり、強くもあり、すざましくもある。

 葉を散らすことで自らは長く寒い冬を乗り切る為に、存在に必要なエネルギーを最小限にする。

 自らも生きながら成長し、母なる大地を肥し、次代に貢献し、他の種をも育む。

 何一つ無駄がない。

 自然は本当に偉大で、人が人たるとは何なのか、自然を観察していると見えてくるものがたくさんある。

 
 この写真からしばらく、目が離せなかった。

 木の立場を考え、自然の循環を思い起こしているうち、私は忘れていた短歌を思い出した。

 "幾山河 超ヘ行く我の道程に
  残れり轍 父母の涙か"

 "忍ぶれど なほ余りある苦しみに
  慕う師の影 見ヘ隠れする"

 


 二十代の後半、私が詠んだ短歌。

 小学生の頃の私は文章が外から降って来る感じで書いていた。

 父との確執の苦しみから書けなくなって30年以上。

 その渦中、この短歌は心の奥の奥の奥から湧き出てきた。

 この2句だけ。

 私にとって父母はもちろん両親であり、師はもちろん私を教えて育てて下さったたくさんの方を意味してるけど、

 私の前に生きた先人たち、そして、人間よりも先に存在し、現在に至るまで生き残り種を保存しているすべての生命が、父母であり、師でもあるんだ、と、

 追憶から蘇った句と共に、そんな思いまでもが一緒に再生していた。