滅多に見ないテレビのスイッチを久々に入れて見た。

そこには、ある駅に置いてある一台のピアノの映像が写し出されていた。
1100年という歴史を綴る古都プラハのリベニ駅のピアノがそれだった。
誰が何を演奏してもいいそうだ。
何人かが演奏する様子が流れていた。
その中にウクライナから恋人を追いかけて来たある青年がいた。
彼は、故国にいたときはピアノを生業としていたが、ここではアルバイトをしているという。
故国には、3年帰っていないと言う。
帰っていないと言うよりは、帰れない、というのが本当のところだろう。
複雑な事情で国籍を持っていないという人も相当数いるのだと、以前にこれもテレビで見たことがある。
いずれにしても日本で生まれ育った私には想像も出来ない現実だった。
というよりも、日本にそのままいたら、こういう内容を聞いても微塵の動揺もしなかったことだろう。
日本人にも帰れない、韓国人にもなりきれない今の私だから、こういう内容に心のどこかが疼いてしまうのだ。
ウクライナから来た青年は、だからと言って、そう悲観的でもないように感じた。
彼の心の中では、故国は生きて存在してるのだろう、そう感じたからだ。
私は何なんだろう。
そんなことをふと感じた。

失郷民。
今の私を一番よく形容してる言葉かもしれない。
国籍もあるし、帰れる故国も故郷もある。
なのに失郷民。
いつから失郷民になったのだろうか。
世界には凄惨な状況下の故国から、逃げ出すことでしか生きて行けない人もたくさんいる。
故郷に帰れない人もいる。
事実、私の周囲にも北韓が故郷だから帰れない人もいるし、北方領土がロシア領だから帰れない人もいることを知っている。
失郷民というのは、こういう方々のことをそう呼ぶ方が当てはまるのかもしれない。
それでも私の胸の中の空洞、ぽっかり空いたままのそれを埋める何かをいまだに探すことが出来ない空虚感は、失郷に似てるようにおもう。
放棄でもなく、執着でもない。
悲しみでもない、癒やしでもない。
怒りでもなく、無関心でもない。
孤独でもない、共感でもない。
そんな空洞。
本当の自分に蓋をして、それが大人になること、生きることなのだと、がむしゃらに走り続けて、
気が付いたら、帰ることが出来ないほど遠くに来てしまっていた。
濃く、苦い漆黒のブラックコーヒーに、ほのかな甘みを渇望するように、
地球上に存在する失郷民のうめき声が、
私の空洞の中で、いつまでもいつまでもこだまする。