令和3年6月18日、天気はくもり。
午前11時を回ったところだ。
昨晩は騒がしい家族のおかげで睡眠の質は最悪だった。
今朝は補填のため二度寝もしてみたが、不調である。
手足に発疹が出て不快である。
通所予定だった就労移行支援も早々に休みの連絡を入れ、自由を手に入れた僕は一時の喜びに浸る。
どうにか押し寄せる不快な波の連鎖を止めようと部屋中を見渡すが、浮き彫りに見えるのは退屈の二文字。
それでも諦めの悪い僕は窓の外まで視線をのばす。
外は明るいがいつの間にか雨が降っている。
いつもベランダにやってきてはせっせと建設作業に従事しているハクセキレイも、今日はお休みのようだ。
こんな日は彼もどこか好きな場所で雨をよけ、羽を伸ばしていることだろう。
そう思うと、なんだか僕も孤独ではない気がした。

これまで文字を書くことにあまり興味をもつことはなかった。
なぜなら、書くネタなんて思いつかなし、文学的な教養をもつわけではない自分の文章を読みたがる特異な人はいないと思っていたからだ。
といいつつ、今も全く同じように思いながら、僕は今この文章を書いている。
それなのに気まぐれに筆をとった(といっても実際にはカタカタするほうなのだが)理由は、シンプルである。
その前にいくつか前置きをしておかなければならないのだが、いいだろうか。
いや、自分の文章を読む人はいないとついさっき言ったくせに、僕は一体誰に問いかけているのだろうてんてんてん(入力方法がわからない、だが別にいい)

僕は幼少より絵を描くことと、音楽を奏でることが好きだった。
厳密には、なんとなくでできるそれらの作品に対して向けられる褒め言葉や、学友からの羨望のまなざしが好きだった。
そんな一時の快楽のための対象に、当然コツコツと時間をかけて取り組むほどの情熱は持ち合わせたことがなかった。
好きこそ物の上手なれ、などと人は言うが、僕の場合そもそも周囲の自分への関心が変わるとそれを追いかけて自分の関心も次々と変わるので、好きになっても上手になることはない。
とまあ、幼いころよりひねくれものではあったが、22年間を過ごしてみると、好きの変化を繰り返す中で何度か再会を果たす者たちがいる。
それが絵と音楽だった。

自分の仮軸としてこの二点をもって世の中を見渡すと、これらを愛する他人のうち、多くの場合で片方のみでなく双方を愛しているという印象を持つ。
あくまで僕個人の感じ方に過ぎないが、僕は自分の声をそのままに焦りや迷いも乗り越えたい系アーティストの崇拝者なのでこれを貫くことにする。
そしてこれも個人の推測なのだが、この二つで人々を魅了する人がだいたいなんとなくやっているコンテンツというものを僕は見つけた。
そう、物書きである。

書き始めてからもうすぐ一時間がたつ。
デスクワークなどとは普段縁のない僕の眼球からは先ほどからクレームが届いているので仕方なく受理しよう。
PC画面から窓の奥の山々に視線を移す。
雨音は先ほどより強くなっている。
手足の発疹に変化はない。
少しは気が晴れた、などということもない。
もし万が一この文章を誰かが読んでいたとしても(やはりどうあっても誰かに読んでほしいと思っているらしい…)、そのこころが何か変わるということもない。

さて、退屈がやってくる。
僕はどこまでも逃げる。
前でも後ろでも、縦横無尽に僕は逃げる。
体の向くままに、気の向くままに。