楽しい元旦のはずが


2024.1.1 能登半島地震で私が体験したこと、

これから大災害があっても1人でも多くの人が助かるように記録を残します。


11 8:00 

毎年恒例、「あけましておめでとうございます、今年も宜しくお願いします」から始まった新年の朝。

美味しいね〜って言いながら皆でおせちを食べて、1歳の娘にお年玉をくれる私のお父さん。


(撮影時 8時3分)


9:00

家族で初詣に行き、「去年はありがとうございます。今年も1年宜しくお願いします」と心の中で唱え、家族でおみくじを引いて、

私と旦那は末吉。伸びしろがあるね〜なんて言いながら神社を後にしました


家に帰り、まった〜りしながらテレビを見たりお菓子を食べたり。

お昼になるとおせちの残りを食べて、娘とお昼寝をしました。


14:30 

だんだん家族が集まって、あけおめ〜と言いながら、私と旦那、娘3人で家を出て、母の家に行きました。


15:30

母の家でも新年の挨拶、いとこや親戚が勢揃いでお年玉を渡しあったり子供たちを遊ばせたり、本当に楽しいお正月でした。


(撮影時 15時35分)


16:05 (1回目の地震1分前

中学1年生の弟の写真を撮りまくり、「かっこい〜」なんてからかいながら、弟は照れながら嬉しそうにしていました。


(撮影時 16時5分)


まさかあんなことにはなると思いもしなかった。


16:06 (震度5)

1回目の地震が来ました。

本当に突然の事でした。かなり揺れ、物が落ちてくるので、これは家の中から出たほうがいいと思いました。

海の近くにある家だったので、母から言われた

『逃げるぞ!!』という声で

急いで娘を抱いて車に乗りこみました。

外には親戚や近所のおばあちゃんが。


母、親戚には「すぐ逃げて!気をつけて!」

と言ってから車を走らせ、その時は壊れもしていない赤信号の信号を待ち、曲がってすぐのこと。


16:10 (震度7)

経験したことのない強い揺れ。

車の中にいても車がバウンドして、地面は割れていく、目の前の家が崩壊して砂埃で前が見えなく、今にもこちらに倒れて来そうな勢いで電信柱は左右に揺れている。


本当にここで死ぬんだと覚悟しました。


1歳の娘の泣き叫ぶ怖がる姿、

一瞬の出来事で、目の前の景色は一変し、

車から出た方がいいのか、出ない方がいいのか、子供もいるのに判断力が鈍りました。

外に出ると瓦が頭に落ちてくるんじゃないか、電信柱が倒れ落ちてくるんじゃないかという恐怖で車から降りるのが怖かったことを覚えています。


車の真横にいたおじさんは地面に這いつくばり、立てず、腰を抜かしていました。


2度目の地震発生から34分が経過し、

車から降り、貴重品、上着、ブランケットを手探りでかき集め、車の窓は開けたままその場から走り、子供を抱え近くの高台までとにかく必死で走りました。

私の地元だったため、避難場所の高台を知っていたことが、私たち家族の命を守れました。


今となれば車からでて高台に逃げることが正解だったと心から思います。



16:20

高台に着く頃には大津波警報のサイレンが鳴り響き、震える手でまずは両親や兄弟に電話、安否確認をしました。

みんな遠くへ逃げれたこと、本当に本当に奇跡だと思いました。


急いで高台に避難する地元の人々。

とても登りにくく滑りやすい階段をおばあちゃん、おじいちゃんが杖を使って一生懸命登ってくる姿。

子供を抱き、上へ上へと登ってくる人達。


皆さんそれぞれ、大事な人への安否確認をして、余震が続き、緊急地震速報や電話が鳴り止まない状態がしばらく続きました。


大津波警報が流れるなか、高台から海を見ていると、潮がサッーーーーーと引いていくのが見えました。


そこかしこから、「あー。終わった

と呟く声が忘れられません。

その後、津波は一気に押し寄せ、私たちの街を襲っていきました。


17:30

薄暗くなる頃に、小学校に入れという指示が出ました。古い小学校なので、(小学校に入ってまたデカいのが来たら…)と怖くて怖くて仕方がありませんでした。

高台の下にある小学校へ行くまでの道は、変わり果てていました。


電波も届かず電気も通らない、断水、ニュースも見れなく、混乱が続いていました。

女子トイレは3つ中2つ、扉が開かなくなってしまっていて、列ができ、流せない状態のまま、みんな用を足していました。

外で用を足す人もたくさんいました。


外は暗くて何も見えず、慎重に歩かなければ

地面に足を取られる状態でした。


20:00

食も水分もない、お腹空いた、横になりたい、という声がチラホラ聞こえ、みんな一緒だ!と注意される人もいました。


いつもなら、娘の夜ご飯はおにぎりに2種類のおかず。

その日は食もないのでどうしようも無く、お腹空いたよね、ごめんねと言いながら、ワンピースを切って娘に母乳だけを上げていました。


(避難時にずっと着ていたワンピース)


21:00

私たちは1階にいて、玄関の近く。だんだん冷え込んできて、寒いと訴える人達がたくさん出てきました。

ダンボール、ゴミ袋、ブルーシートが配られ、

みんな体のあちこちに巻いていました。


(撮影時 21時)


22:00

携帯を充電する用に、発電機が小学校に来ました。しかしそれもすぐ埋まり、10台くらいしか充電ができないので、そこでも混乱が起きました。


0:30

旦那さんが車を取りに戻りました。

少しでも離れるのが不安で不安で、その間に何かあったらどうしようと苦しくなりましたが、後に車を取りに行ってくれたことで、私たちは能登から逃げることが出来ました。


道が悪い中、小学校に叔父が迎えに来てくれて、地震直後に離れてしまった家族・親族の元に無事辿り着けました。


町から明かりが消え、絶望する中で見た満天の星空は死ぬまで忘れられないと思います。