久しぶりのブログ更新ですびっくりマーク

今年厄年なんじゃないかと言う位に、災難が立て続けにあって、楽天的な私はもうなる様になるさって開き直ってる状態です。




今日は、3月11日、東日本大震災の日。

その日の事を思い出せる限り書こうと思います。

中にはそのまま書くので、当時の辛い事をフラッシュバックしてしまう方もいると思います。

注意して読んで頂ければと思います。



2011年3月11日の話。

私は2010年の5月に結婚して、東北の同じ県内の山側から海側に嫁に行きました。

引っ越しをして1年と経たない頃でした。2011年4月から学童保育の指導員の仕事も決まり、市の図書館で3月11日の午後1時くらいから、児童発達の育児書を読んで勉強していました。

朝から雲に隠れた太陽の光が見える雪のちらつく不気味な天気の寒い日でした。


図書館で、発達の育児書を読み終わり、手遊びの本を探して読み始めた頃、二つくっついて並んだ机の隣に私より年上のお姉さんが座りました。

皆んな図書館に結構来るんだなぁって思っていたら、低音の地鳴りのような音がして、その1分後に揺れ出しました。物凄い横揺れだったと思います。びっくりして少しフリーズしてたら、隣のお姉さんが「机の下に!!!」って声をかけてくれて慌てて机の下に隠れました。揺れている間中、ずっと手を握っててくれました。隠れてる間中の私の頭はパニックで真っ白でした。

揺れはとても長く、揺れてる間、図書館のあちこちで悲鳴が聞こえてきました。

揺れが小さくなり、図書館の司書さんが「今のうちに外に避難してください!!」「怪我してる方はいませんか!」と声が聞こえてきて、手を握っていてくれたお姉さんと外に震えながら出ました。

外に出るまでに、棚には一冊の本もなく空で、全部下に落ちていました。司書さんが本は踏んでも構わないから、今すぐ建物の外に出て下さい!!って叫んでいました。


外に出たら、図書館の近くの信号機は、暗くなり動いてなくて、防災無線で津波に注意するようにと余震に注意するようにと放送が繰り返しかかっていました。

お姉さんに「気をつけてね」と声をかけて貰って、お辞儀をして別れ、車で来ていたので車に乗り夫に電話をかけたのですが繋がらず、図書館から車で5分の貸家に行き、簡易な食料と貴重品、戸締りをして隣の家に生まれたばかりの赤ちゃんが居る事を思い出して、非難する車をお持ちでなかったので、乗せて行くから一緒に避難しませんか?と声をかけてみました。

隣の家の方は、「旦那さんとすれ違いになると困るから待つから大丈夫、ありがとう」と言われたので、強引にしてもなと思い、そのまま山沿いにある夫の実家に逃げました。

その最中には、防災無線から大津波警報が出ました避難して下さいと言う放送に変わり不気味なサイレンと共に繰り返しかかっていました。

皆んな逃げるのに必死で車社会な土地柄、車で逃げる人がとても多く、街中は信号機が停電でついてなく、交差点毎に渋滞でした。

私が仙石線の線路をこえて山側に向かう途中、それは静かにきました。真っ黒な津波です。

私は逃げなきゃとパニックになり、渋滞で動かない二車線の道路から、細い路地に入り、山側に行く事が出来ました。

渋滞で動けないまま、津波に浸かった車は動けなくなり、脱出した方、窓が開かなくなり外から壊して貰った方様々だったようです。



夫は、会社近くの現場で地震に遭い、私を心配して車で探していたようで、途中津波が来てから滝のように黒津波の流れる道路を車高の高いRV車だった為、津波の中を走り、夫も山側に逃れたそうです。

夫は生まれて初めて生命の危機を感じたそうです。



私は夫の実家に避難しましたが、夫と連絡が取れず不安になり山側から探しに車で夫の実家を出ました。山側のコンビニに避難してきた人が集まっているのを見つけたので、私もコンビニに駐車して夫の車を探しました。

すると奇跡的に夫と電話がつながり、コンビニで待ち合わせる事になり、待っていると夫到着。

夫は、キレる事はあっても絶対泣かないタイプなんですが、無事で良かったと初めて私の前で私の為に泣いたのです。私もワーってギャン泣きしたのをおぼえてますガーン

夫が私の為に泣いてくれたのは後にも先にもあれだけです凝視

私の貸家は津波で床下浸水、貸家までの道路は津波が引かず、帰れなくて1週間くらい夫の実家にお邪魔していました。



今日、震災があった日、何年経っても思い出します。車で逃げる途中に迫ってきた黒津波。

黒津波に浸かった街並み。

ライフラインの止まった生活。

今となっては嘘みたいに以前に戻りつつありますが、私は死ぬまで忘れない。








最後に震災で亡くなられた方、震災関連で亡くなられた方のご冥福をお祈り致します。