桐生祥秀に勝ちたい。


その想いが肉体や競技者としてのピークを迎える今、最大値を迎えている。どうやっても“走って”勝てなかったので、なんだっていいから上回りたい。彼が刻んだ日本人初めての9秒台や数々の功績を、あの日、同じトラックで彼の背中に追いつけなかった日々を、羨ましく思い続けて、そして忘れられずにいる。僕は彼が陸上界に残した偉業を、今、人生をかけてチャレンジしている陸上競技ビジネスで超えたい。

彼との出会いは中学2年生。僕は野球部に所属しながら陸上競技大会にだけ出場する、「舐めた天才」だった。陸上の練習もせず、中学3年生の時には100m10秒台で走り、全国大会にも出場した。自分で言うのもなんだが、紛れもない天才だったと思う。でも同じ年、同じ地区にいたその“モンスター”にすべてを打ち砕かれた。

中学時代は一度も勝てず、「本業は野球部だから、陸上の練習をすればいずれ勝てる」と言い訳のように考えていたが、とんでもない誤りだった。結果として、記録的に一番彼に肉薄したのはこの時となる。

高校への進路も、心の底から彼と同じ進学先である強豪「洛南高校」を望んだのに、最後に勇気がわかずに飛び込めなかった。もしあの時、あの場所で、肩を並べて走る日々を送っていたら、そうやって後悔することもある。

「西村(僕)とリレー組みたかったわ」
そう言う桐生に、僕は「もし日本代表になれれば、味方同士だけれど、もう一度彼と肩を並べるチャンスが出てくる」なんて考えたものだった。


<僕と彼の中学卒業時>
桐生10秒87
西村10秒97


それから僕は地元の高校に進学して圧倒的な差がついた。毎日それなりに楽しく走っていたが、指導者はおらず全く伸びなかった。当時は、「日本人初の9秒台をいつ、誰が出すのか?」、それが陸上界の話題の中心だったから、陰ながら僕こそはと狙っていた。

だから「9秒台に一番近い男」の彼に嫉妬するのは当然だった。
なぜ僕じゃないんだろう。僕は9秒台からもほど遠く、一緒にリレーを組める未来など全く見えなかった。日課は、Twitterで彼の速報を追いながら、
「出るな、出るな、また9秒台出るな」と祈ることになっていた。今考えても昨日のことのように思い出せるほど惨めだった。

<僕と彼の高校卒業時>
桐生10秒01
西村10秒85

高校を卒業して大学に進学、今も住んでいる第二の故郷である富山県にきた。
富山を選んだ理由としては、強豪大学が多い関西関東以外という、これまでと違う環境に身を置きたかったことが一番の理由だ。

そこでは、心機一転これまでのことは忘れて競技に取り組めた。彼は圧倒的な努力をして結果を手に入れた。あの日、野球部だからと逃げて、勇気がわかず洛南に飛び込めなかった自分が彼に追いつくには奇跡が必要だ。それはわかっていた。

だから羨ましく思っている時間を捨て、ひたすらに自分と向き合うことにした。奇跡を呼ぶための狂気の努力にすがる毎日を過ごして、結果、大学入学後は記録も伸びていき、再び全国の舞台にも立てるようになった。

それでも、この頃には彼と差がつきすぎていて、同じレースを走ることもなかったが、大学3年の時、やっと高1以来、同レースを走ることになった。

しかし、結果は惨憺たるもので、僕は予選落ち、彼は優勝。本当に“光と影”を地でいっていたけれど、気持ちは少し嬉しかった。はるか遠く、何億光年も先にいた彼に少し近づけた気がしたから。そこからはまた努力努力努力の日々。

そうこうしている間に彼はオリンピックでメダルも獲得し、名実ともに日本のトップスターになっていた。

僕は、翌年大学4年生で富山県記録を樹立。富山県という田舎でようやくスターになれた。そして迎えた大学4年生の全国大会。昨年は見るも無惨な結果だったが今年は違う。4年、いや7年の想いをのせて、なんとか一矢報いてやると望んだ。

順調に予選、準決勝と勝ち上がり、いよいよ全国大会の決勝で桐生と相まみえる。
中学以来、彼の背中に最も近づけるチャンスが、やっとやっと巡ってきた。いや巡ってきたのではない、掴み取った。あの日、逃げ出した自分を責め立て、奇跡のために血のまじる汗をなめた日々の延長線上がここなのだ。

結果は、9秒98で彼の勝ち。ずっとずっと日本人が追い求め、陸上選手全員が最初に出すんだと意気込んで、何度もTwitterの速報で追いかけてきた日本人初の9秒台が目の前で出た。今思い返してもその時の感情はわからない。嬉しくとも、悔しいともつかず、「正直なんかよくわからん」ままだ。

歴史的レースを一緒に走った僕には、周りからやたら声はかけられるし、自分からすれば全国大会で入賞でもよくやったと言われるレベルだったが、なんと言っていいのかいまだにわからないのだ。

でも、どんな感情だったかは言語化できないが、ようやく人生の目標が見つかった。
覚悟が決まったとも言える。

①一生、陸上に関わっていく
②桐生に勝ちたい!


<僕と彼の大学卒業時>
桐生9秒98
西村10秒32


そこから競技にしがみつき続け、本気で9秒台を目指して、何度もスタートラインに立って、ゴールラインを駆け抜けた。何度も何度も、数えきれないくらいに。
それでも、もう伸びることはなかった。

今だからやっと振り返れるが、きっと自分にはトップ選手としての器が足りなかった。

当時は、「地方選手の割には頑張っている方」で満足して、ここから先の伸ばし方や知見の吸収に対して貪欲になれなかった。それに、これまでは挑戦する立場でがむしゃらだったのに、ちょっと結果が残ってしまったことで、さてこの先はどうしたらいいのだろう?と感情がぐちゃぐちゃになってしまった。

9秒台までの道のりはまだまだなのに、競技に全てを打ち込むこともできず、練習中も雑念が入るようになった。簡単に言うと、競技に向き合えるメンタルではなくなった。そして、それを立て直せるほどの力も覚悟もなかった。

「10秒32ってすごいよね」
そう自分が思ってしまったこと、そこが限界だった。器じゃない、その一言で片付けられると惨めだけど、そうかもしれない。

格好をつけても仕方ないからありのまま伝えると、その後、大学院、実業団と進んでも結果は一つも残らず終わった。

ただ、ありがたいことに仕事は面白かったし勉強になった。
陸上競技に100%の気持ちが入らない自分を鼓舞するかのように、仕事に全力を捧げた。

そして、25歳で競技に一区切りをつけることにした。これまで陸上に注いだ時間を全てビジネスにかけて、方向転換をすることにした。

ただ、まだ桐生に負けたとは思っていない。
走りではどうしても勝てなかった。潔く認める。だから、僕は事業を大きくして勝つという方向に転換をした。

起業した時の目標は「彼が陸上界に与えたインパクトを超える事業を作る」。
よく考えるととんでもない高い頂きに手をかけるようなことだ。

僕のこれまでの人生は、野球部だから、勇気がわかないからと桐生祥秀と本気で競うことから逃げたことからはじまって、奇跡を掴むために巻き返したけれど、それでも彼の背中を見送った記憶にがんじがらめにされている。それでも、それでも、僕もまだ諦めたくない。頑張れると信じている。

彼がいなければいつでも陸上は辞められた。記録が伸びなくなった時や、大学に入学した時、卒業した時、いつでも辞められた。がんじがらめになったからこそ、彼が目の前を走り続けていてくれたからこそ、今でもここで踏ん張っていられたに違いない。

陸上界に与えたインパクトを超える、なんていう荒唐無稽な目標だから、これからの人生をかけて超えられるように命を懸けたい。

※余談だが、僕の人生の夢出現率1位は桐生くんで個人的な思い込みがえぐいことになっている。同級生とかで最近桐生くんに走りで勝つ人がいたら羨ましくて仕方ない。

最後に勝つのは俺だといまだに思ってる。
おまけに中高校時代は、負け惜しみのように一緒に走った後に次は勝つわと言ってた。
いまだに「リレー組みたかったわ」の言葉を引きずっている笑

彼が今後、競技人生を終えてビジネスパートナーを探した時に、西村と組みたい!ともう一度言ってもらえる人間になっていたい。今度こそ、逃げずに二人で駆け抜けていきたい。

そう思って、陸上ビジネスで走り続けるだけ。

西村 顕志